6
その日の夜。
アクシス化学工場前に佇む、成人男性と少女の姿。
袖口に大振りのレースがたくさんついた白いカットソー、丈の短い黒のカーディガン、胸元から腰にかけて身頃を絞ってリボンをあしらいスカートのボリュームを強調したグレーのチェックのワンピース、黒いニーハイソックスと編み上げの黒いブーツ。ウィッグも新しいものに替えられており、黒いおかっぱの髪形に、白いヘッドドレスが映えている。
類稀なる美少女、と表現してもいいほどの可愛らしい姿ではあるが、残念ながらその表情はムスッと不機嫌そのものである。
そんな表情を和らげてやろうと、クロロはピロッと少女のスカートをめくってみる。
「ギャッ! 何すんだよ!!」
お尻を隠すように両手でスカートの後ろを押さえるのは、少女の姿をしたゴンである。
「・・・ちゃんと、買ってきてやったかぼちゃパンツ履いてるか、確かめようと思って・・・」
「履いてるよ! スースーして寒いから!」
「そうか、気の利いた買い物ができてよかった」
「全然、気が利いてない! なんでまた女の子の服なんだよ!?」
「イヤ、似合ってるし、可愛いから」
「だから嬉しくないって! そもそもこんな格好するのも、オレの趣味じゃないよ!」
「そう言いながらも、ちゃんと着てくれるお前が、俺は好きだな」
「ほ、他に着るものないんだから仕方ないだろ!」
頬を赤らめて抗議するゴンと、とぼけた表情のクロロ。
とてもとても、これからマフィア退治に繰り出す様子には見えない、呑気な調子の二人である。
クロロは昼間と違い、ヨークシンの夜に見たオールバックの髪型と黒いコートの姿のいでたち。傍らに佇むゴンは前述の通りだ。並んで歩く姿は、コンサートやイベント帰りのカップルのようである。
「ホラ、いいから行くぞ」
と、軽くゴンの頭を小突きながら工場の敷地内へと向かうクロロ。その言い草に「クロロが先にふざけたくせに!」とぷんぷんしながら、ゴンは後を追う。
搬入車両の入り口で、門の傍らに居た守衛に見咎められそうになるが、クロロは瞬間的に手刀を打ち込み気絶させる。ドサ、という音を聞いたもう一人の守衛が小屋から出てきた瞬間に、ゴンが男の鳩尾に拳を入れ、こちらも気を失わせた。
「・・・ま、特に危険はないだろう。目的は『ソーマの書』だ。なんなら、どちらが先に見つけるか、競争でもするか?」
悪戯心を湛えた目でチラリとゴンを見遣るクロロ。競争、という言葉にピクンと反応したゴンだったが、グッと堪えて言う。
「ダメだよ。お前が、人を殺さないように見張るんだから。オレはお前についてく!」
強い眼差しで言い放つゴンに、クロロはやれやれ、と嘆息して天を仰ぐ。
「信用ないな。仲間だろう?」
「仲間なんかになった覚えはないよ! 今だけ、協力しているだけだ!」
ムキになって否定するゴンに、クロロは苦笑を浮かべる。
小走りだったスピードを徐々に上げ、広い敷地内をふたつの影が駆け抜けていく。
悪行か、善行か、誰も判断のつかぬ二人の行いを、白い月と長身の男が見下ろしていた。
赤い髪と、道化の化粧。建物の屋上に佇み、薄く微笑みながら、男はふたつの影を――――その内の、青年の姿をジッと眼で追っていた。
結論から言えば、工場内に『ソーマの書』はなく、『エデン』の精製ラインなどの施設を一通り破壊したのみで二人は工場を後にした。
工場長はじめとする幹部連中に、目当ての物のありかを尋ねたところで「ボスに聞いてくれ!」の一点張り。その度に相手を殺そうとするクロロと、それを止めるゴンのやり取りが何度も展開された。
「だったら、コレで」
クロロが取り出したのは、蜘蛛の絵が描かれたコイン。
「俺たちは、揉めたらコレで決める。さあ、どうする?」
ピンッ、と音を立ててコインを弾き、手の甲にパシンとコインをキャッチするクロロ。
ジッと強い目線でコインを見つめていたゴンは、短く「表」と答える。
コインに被せた手をクロロが外すと、コインの絵柄は、表。「ふむ」と答えてクロロは工場の男を気絶させる。
そのようにして、工場の男たちは全員が命を取り留めた。全てのコイントスにおいて、ゴンが勝利した結果である。
「・・・イカサマなんて、しようがないもんな」
不思議そうにコインを眺めながら、クロロは結果を受け止める。
ゴンは複雑そうな表情をしており、何か裏がありそうではあったが、クロロは敢えて尋ねることはなく、二人はマフィア"グリソム"のアジトへ向かう。
人気のない街を二人、疾風の如く駆け抜けていく。
高架下に続くバーや飲食店街の中に、"グリソム"が根城にしているアジトはあった。表向きはダイニングバーだが、地下への階段を降りれば人の命も金で買える世界がそこに広がっている。
街のごろつきや娼婦たちがはびこる治安の悪い地区を抜け、クロロはその店のドアを開ける。貫禄のあるクロロはともかく、後に続くゴンの姿はその薄汚い店には酷く不釣合いで、チンピラたちの視線を釘付けにしてしまう。しかし、そんな下卑た視線などまったく気にすることなく、ゴンもクロロも階下への階段を臆することなく降りていく。
階段を降り切り、階下のドアを開けた瞬間、軽い破裂音がいくつも響いた。
銃声。
クロロは『凝』で左手だけをオーラで包み、全ての弾丸を掴み取る。『堅』で防いでも良かったのだろうが、弾丸を素手で受け止めるという技の方がマフィアたちの気勢を削ぐには有効のようだった。少なくとも、クロロの背後からマフィアたちの慌てふためく姿をチラリと見たゴンにはそう思えた。
「ば、化物だっ!」「逃げろ!」と口々に叫ぶスーツの男たち。クロロから距離を取ろうと逃げ惑う男たちを、奥に居た恰幅の良い男が銃で打ち抜いた。響き渡る、絶叫。致命傷を免れた者の苦痛の叫びと、逃げ惑う者の恐怖の悲鳴が、天井の低い地下室にこだまする。
立ち込める血の匂いに、ゴンは顔をしかめる。
「よく見ろお前ら・・・敵はたった二人で、しかも一人は小せぇ女のガキだぞ。あっちのガキをまずひっ捕らえて人質にすりゃあいい話じゃねぇか!」
行け! と傍らに控えていた側近らしい体格の良い男を顎で差し向ける、ボスらしき男。
ゴンはクロロのコートの裾を握り締めてチラリと見上げる。本人はまったく狙っていないのだが、傍から見れば、恋人か兄か、男の庇護を受けているか弱い美少女にしか見えない姿だ。
愉快そうに微笑んだクロロは、ひとつ頷いて「暴れてこいよ」とゴンを促す。
「・・・あんな連中じゃ、殺さないように手加減する方が難しいよ」
と、困ったように呟くゴンに、「だったら殺せばいいじゃないか」と穏やかでないことを、優しい口調で語りかけるクロロ。「うるさいっ!」とクロロを邪険にあしらいながら、ゴンは前に出て、右拳を左掌にパンと打ちつける。
その小さな少女に男たちがワッと一斉に襲い掛かる。
しかし、一瞬のうちに気絶した人間の山が積み上がる。グリソムの側近と思しき屈強な男でさえも、瞬殺だった。
あっという間に、男を取り巻いていた全ての者が倒され、意識があるのは自分一人だけだと気付いたところで、ようやく慌て出すドン・グリソム。脂肪を纏った腹を醜く震わせながら、床に尻餅をつき、這うように後ずさる。白いシャツの袖口が、自ら殺した部下たちの流した血で赤く染まっていく。
「な、何が目的だ、お前らっ・・・!? か、金かっ!? か、金なら、欲しいだけくれてやるぞ・・・! だ、だから頼む・・・命だけはっ・・・!!」
先ほどまでのふんぞり返った態度は露と消え去り、声を裏返らせてオリジナリティの欠片もない命乞いをするグリソム。
ゴンは、冷めた眼で男を見下ろす。
クロロは落ちていた拳銃を拾い上げて撃鉄を起こし、銃口を男に向けた。
「『ソーマの書』・・・『エデン』のレシピは何処だ?」
銃口を向け、冷たい眼で男を見下ろしながら、クロロは問う。
脂汗を滲ませ、涎を垂らしながら男は喘ぐように答えた。
「こ、此処にはないっ・・・! 元々、女が俺に寄越したものなんだ! その女が持ってる!」
「・・・女?」
怪訝な表情で問い掛けるクロロ。
グリソムは助かりたくて必死な様子で、懸命に言葉を続ける。
「ああ、"リリス"って通り名の、赤い髪の娼婦だ! そいつが、二ヶ月くらい前に俺たちの元へ、『エデン』のレシピを持ってやって来たんだ!」
男の必死な言葉を聞きながら、ゴンはその女が『旅団』から『ソーマの書』を盗んだのだろうかと思案する。
クロロは、表情なく、銃口を揺らしながら更に問う。
「その女の居場所は?」
クロロの問いに、グリソムはゼイゼイと喘ぎながらかろうじて答える。
「い、今は、俺の別邸に住まわせてる・・・! チェルシーストリートの二番街だ・・・表に赤いジャガーを停めてあるから、行けばすぐにわかる・・・!」
た、頼む・・・! 命だけは・・・! と叫ぶグリソム。
そんな醜い男の様子を、さしたる興味もなさそうな眼でクロロは見下ろす。
フン、と息を吐きながら銃口を下ろし、男を解放してやるのかと思いきや、突然、パン、と男の腹を目掛けて引き金を引いた。
響いたのは、グリソムの情けない悲鳴。恐怖のあまり失禁し、口をだらしなく開いたまま、言葉にならぬ声を発している。
しかし、銃弾は男には届かなかった。
オーラを纏った左手で、ゴンが銃弾を掴み取った為だ。
「・・・殺すのは、ダメだ」
キッとクロロを睨みつけながら、ゴンは鋭く言い放つ。
クロロは無表情に、呆れたように息を吐く。
「こんなクズを生かしておいて、一体何になる? 『エデン』を街中にばら撒いて罪もない市民たちをもヤク中に追い込んだ張本人だぞ? 今だって、部下を躊躇なく殺したのを、お前だって見ていただろう?」
言いながら、クロロは周囲に転がる死体にチラリと視線を向ける。合わせて五体。クロロから逃げようとした部下を、グリソムが戯れに撃ち殺した死体の数だ。
「それでも・・・ダメだ」
ギッと強く睨みつけて、確かめるようにゴンは言う。
「殺さないことが正義だとでも思っているのか? 自分の手を汚したくないだけの欺瞞のように、俺には見えるがな」
言いながら、クロロは銃口を上に向け、これ以上撃つ気はないことを示す。
ゴンの頑なな態度に呆れながらも、こうなったらおそらくコイツはてこでも動かない、ということを察した為だ。
クロロは手にした銃を血の海に転がし、踵を返して地下室から出て行く。
掴んだ銃弾をコロン、と床に落として、ゴンもクロロの背を追って、血生臭い部屋を後にした。
グリソムが口にしたチェルシーストリートは、街の中心地に程近い高級住宅地だ。
シンと静まり返る街路を進み、小高い丘のようになった高台の行き止まりに目的の邸宅は存在した。
まさしく白亜の豪邸。いくつ部屋数があるのか、外観からでは想像もできないほどの大きな建物に、広々とした庭。確かに玄関前にジャガーが停められていたが、3台ほど車が停められそうな車庫も備え付けられていた。
白々とした月の光の下、ゴンはクロロの背中にふと、問い掛けた。
「・・・どうしてさっきは、コインを投げなかったの?」
クロロは、ゴンの問い掛けに立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
「意味がないと判断したからだ。どうせお前は、コインの結果に関係なく、あの男を助けていた」
その口調に咎める色はない。
おそらく、クロロはマフィアのボスの生死になど興味はない。自身が手にするはずだったお宝のおこぼれに預かっただけの薄汚い男を、卑小な存在と嘲りこそすれ、憎しみや嫌悪感など抱きようもない。生きていようが、死んでいようが、クロロには関係のないことだった。
「だが・・・」
クロロは、ゴンを静かに見下ろす。
「そう言えば、工場でお前は全てのコイントスに勝利したな。一体、どうやったんだ? まさか、全て運任せでもないんだろう?」
クロロ自らが用意し、投げたコインだ。細工のしようもなく、クロロには微かな疑問が残る。
それはゴンの常人外れた動体視力が為せる技であったが、ゴンは「教えない」とプイッと横を向き、少ししてから再度キッとクロロを睨めつけた。
「コインなんかで他人の運命を決めるようなこと、オレは嫌いだ。運なんかに任せない。人の運命は、その人の手で掴み取る物だ」
強い眼差しは、強い意志の現れ。
運命は、自分の手で切り拓いていくもの。そう、信じて疑わない、澄んだ瞳。
(キレイ、だな)
この意志の強さと透明な瞳は、きっと少年が成長しても、未来永劫失われることはないのだろうとクロロは思う。
その煌きは、世界中に隠されているどんなお宝にも、勝るとも劣らぬ美しさに見えた。
瞬間、欲しい、とクロロは渇望する。
「・・・自分の手で運命を掴めるかどうかさえも、運次第だと思うがな」
大人らしい、ヒネた答えを返しながらクロロは微笑んだ。ゴンは、クロロの言葉にベーッと舌を出す。憎たらしい反応が逆に愛らしく、クロロはゴンの表情を見て苦笑を浮かべ、マフィアの邸宅へと侵入した。
パキ、とほんの僅かな音を立ててガラスを割り、窓から侵入するクロロ。後に続くゴン。
入った部屋はリビングのようで、豪華なソファセットやマホガニー製のチェストなど、いかにも高級そうな家具が、派手なペルシア絨毯の上に置かれていた。特に部屋を物色することもなく、クロロは部屋を通り抜けてドアを開け、影のように廊下へと躍り出る。
邸内は静まり返っている。二人が廊下を歩くたび、自動感知型のフットライトがポッと灯っていく。足音も無く廊下を歩みながら、クロロは扉をひとつずつ開けて中を確認していく。どの部屋にも人影はなく、一階にある全ての部屋を見て回ったところで、二人は自然と階段へ足を向けた。
「・・・金庫とかに、隠してあるんじゃないの?」
階段を上りながら、小声でそっとクロロに尋ねるゴン。
しかし、クロロは首を横に振る。
「グリソムは『女が持っている』と言った。此処はアイツの私邸なんだぞ。自分の家の金庫に隠してあるのに『女が持ってる』とは言わないだろ。おそらく、ヤツは本当に『ソーマの書』の在り処を知らない。女を囲うことで、秘密の漏洩を阻止していただけだろう」
クロロは上に視線を向けたまま、ゴンに説明する。そういうものか、とゴンは納得したが、その割には警備もなく、『エデン』の精製法の鍵を握る女の居場所にしては随分無防備な印象だ。
「その女の人が・・・お前たちから『ソーマの書』を盗んだのかな?」
囁く程度の音量で疑問の声を上げたゴンだったが、クロロはゴンを振り返り「シッ」と小さく咎める。
二階の廊下の一番奥の部屋。ドアは閉ざされているが、隙間から淡い光が零れている。ゴンは、クロロの目を見上げ、コクンと無言で頷いた。
この邸宅に着いた当初から二人は『絶』でオーラを消している。更に、足音、呼吸、気配、全てを殺しながら、ゴンはクロロの後に続いた。
ドアの前に辿り着く。
一呼吸置いて、クロロはバン! と扉を開いた。
瞬間、「キャッ!」と響いた女の悲鳴。
部屋の様子を伺おうと、クロロの背から顔を出そうとしたゴンだったが。
「あ」
というクロロの短い声が耳に届いたと同時に、黒いコートで視界を覆われていた。
「え・・・えっ?」
戸惑うゴンに対し、クロロは更に背後に回って両手でゴンの目を隠す。
「悪いな、お子様には刺激の強い光景のようだ」
クロロに耳元で囁かれ、一体何が起こっているのだろうと、頭の中にはてなマークを浮かべ続けているゴンだったが、不意に聞こえた声に思わず息を呑んだ。
「やあ、会いたかったよ、クロロ♥」
(えっ・・・この声・・・!?)
聞き覚えのある声に、ゴンは身を強張らせる。ゴンを後ろから目隠ししている状態のクロロは、ゴンの緊張を感じて、抱き寄せるようにゴンの身体を自身に引き寄せる。
「・・・俺は、会いたくなかったんだがな」
困ったように溜息混じりに言うクロロ。口元には、苦笑が浮かぶ。
一方、声の主――――ヒソカは、ベッドから降り、一糸纏わぬ姿でクロロと対峙する。
部屋は広く、中央にキングサイズのベッドが置かれた寝室のようだった。ベッドの中では、赤い髪の女が、裸身を隠すように毛布を手繰り寄せて怯えている。暗い室内、ベッドサイドのスタンドランプだけが淡く光を灯していた。
ヒソカと女(おそらく、グリソムが語っていた女と思われる)の行為の最中に二人が侵入してしまった状況。クロロが瞬時に気を利かせてゴンの視界を封じたのは正解だったようで、当のゴンは女とヒソカの声が聞こえてきたところで、何が起こっているのか全くピンときていない様子である。
ヒソカは、突然の乱入者にも動じることなく、むしろ歓迎している様子で笑みを浮かべる。目の前のクロロの存在を悦ぶように、ヒソカ自身は熱を帯びて半ば勃ち上がっている。
「随分、可愛らしい恋人を連れているじゃないか♣ 新しい団員かい?」
愉しそうに、余裕の笑みでクロロに問い掛けるヒソカ。話題にしているのはゴンのことだが、クロロに目隠しをされ、尚且つロリータ服を着た可憐な姿だ。当然、ヒソカは目の前の少女がゴンだという事に気付いていない。
「・・・目下、勧誘中というところかな」
答えるクロロに、「へぇ♠」と物珍しそうな顔をするヒソカ。
「勧誘中、って事はまだ落ちてないってコトなんだ? 天下の『幻影旅団』団長の誘いを断るなんて、肝の据わったお嬢さんだね♦」
興味深そうに少女の姿をマジマジと眺めるヒソカ。全裸のヒソカの視線に晒されたくないようで、クロロは「見るなよ」とゴンの身体を隠すように抱き寄せる。
と、その時、クロロの腕の中で、ゴンが唐突に声を上げた。
「ねぇ! っていうか、そこに居るのってヒソカなんでしょ!?」
「・・・♠♦♣♥!!?」
突然耳に届いた聞き覚えのある声に、ヒソカは目を点にする。
ヒソカはクロロに視線を送ると、クロロは困ったな、という苦笑顔。
「え・・・まさか、ソレって、ゴンなのかい?」
ヒソカの上擦った声を聞いて、ゴンは自身の服装に思い当たって「ハッ、しまった!」という顔をする。
(うわー、またクロロの時みたいに、ヒソカにもからかわれちゃうよ・・・オレの趣味で着てるわけじゃないのに・・・)
と、恥ずかしげに心配するゴンの思考はどこか的外れで、もっと別の心配をすべきだという事には残念ながら本人は気付いていない。
曖昧な苦笑を浮かべたままのクロロの表情をヒソカは肯定と捉え、クロロの腕の中に居るロリータ服姿のゴンを再度ジッと見つめて、この上なく興奮を募らせる。禍々しいオーラを発しながら、股間の怒張は反り返るほどに天を仰ぐ。
「へぇ・・・ゴン、そんな趣味があったなんて意外だなぁ♥ こっちへ来て、その可愛い姿をもっとよく見せてよ?」
言いながら、ジリッと一歩踏み出すヒソカ。オーラを感じ、ゴンは咄嗟に『絶』を解き、『纏』を行う。ゴンを抱き締めるクロロの腕に、力がこもった。
「それにしても意外な組み合わせだね♣ 僕としては、大好きな二人が揃っていて、どっちから手をつけたら良いのか迷うけど♠ ところでゴン、キミはどうして此処に居るのかな?」
その問い掛けに、ゴンは一瞬、アレ、なんでだっけ? と自らも疑問に思ってしまう。そもそもは『ジョーカー』確保の為に来たはずのこの街で、クロロに出会い、『エデン』とマフィアの壊滅に誘われ・・・
「今、この瞬間の為さ」
唐突に言い放ったクロロの言葉。
クロロはゴンの目から両手を外し、片腕でゴンの身体を抱き締めたまま、左手に持った何かをゴンの首筋に当てた。
視界が晴れ、ゴンは状況を確認する。ベッドの中の赤毛の女、(なぜか)服を着ておらず化粧もしていないヒソカ、そしてゴンを背後から抱き寄せるクロロの左手には、一本の注射器。針は、ゴンの喉元に当てられている。
「『ソーマの書』を返してもらおうか、ヒソカ」
ヒソカと距離を取り、笑みを浮かべて言い放つクロロ。その言葉に、ゴンは衝撃と疑問を覚える。一方ヒソカは、クロロの言葉に曖昧な笑みを浮かべる。
「貴方が僕と闘ってくれるなら・・・と、言いたいところなんだけど♣」
クロロの腕の中の、愛らしい姿のゴンをチラリと見遣るヒソカ。正確には、その喉元に当てられた、注射器を。
「ゴンを人質にでも取ったつもり? 別に、僕は・・・」
「自分の目の前で、お気に入りの玩具を他人に壊されるのは、流石に嫌だろう?」
すべて、お見通しと言わんばかりにクロロは言い切る。
ヒソカは余裕の表情を見せながらも、逡巡する。
ゴンを見捨ててでも今、クロロと闘うのか。それともゴンの命を優先するのか。
他方、ゴンはクロロの突然の行動とヒソカの言葉に戸惑うばかりだ。
「・・・じゃあ、『ソーマの書』を『旅団』から盗んだのって、ヒソカだったの?」
ヒソカとクロロ、双方に発した問い掛けではあったが答えたのはヒソカだった。
「そうだよ♣ クロロに掛けられた制約の除念に成功したら、僕と闘ってくれるって約束だったのに、残念ながら逃げられてしまったから、もう一度、今度は彼の方から出向いてもらえるように、と思ってね♦」
「それを・・・お前は、最初から知っていたんだな?」
ギリ、と歯を食い縛りながら斜め後ろ、ゴンの身体を抱くクロロを睨む。
ゴンの悔しげな様子に、クロロは苦笑混じりに溜息を吐いて肩をすくめた。
「予想はしていたが、確証はなかった。だから敢えて言わなかっただけだ」
なだめるような言い訳も、ゴンの悔しさを払拭する言葉にはなり得ない。自分はクロロに利用されたのだ、とようやくゴンは気付いたからだ。
まさに今、この状況の為に。
しかし。
(ヒソカにとって・・・オレなんか、人質の価値なんてないんじゃないのかな)
人の命など、紙切れほどの価値もないと考えているような男だ。たとえ知り合いだとはいえ、自身の存在がヒソカとの取引材料になるのだろうかと、ゴンはクロロの判断を疑問に思う。
「それにしても、工場かマフィアのアジトでお前が襲ってくるんじゃないかと懸念していたが、こんな所に居たとは俺も意外だった」
ヒソカとの間合いを十分取りながら、クロロは笑んで語りかける。
一方ヒソカは、床に落ちている自身の衣服を拾い、ひとつずつ身に着けながらクロロの言葉に答える。
「だって、マフィアなんかと直接取引したくないし♠」
ホラ、僕、人見知りだから、ととぼけた口調でおどけるヒソカ。クロロはその言葉に、チラリとヒソカの後ろ、ベッドの中で怯えている赤毛の女――――よくよく見れば、まだ顔立ちにあどけなさを残した少女ようだが、彼女を見やって「ああ」と納得したように声を上げた。
「そうか、二年前の・・・」
クロロの言葉に、ヒソカはニィと笑んで頷く。
「そうだよ♠ 貴方が、『ジョーカー』なんて懐かしい名前を使って、僕を出し抜こうとするからさ♦」
言いながら、すべての衣服を身に着けたヒソカが、巻物のような古びた紙の束を手にしてクロロに示した。
「さ、ココに貴方のお探しの物があるけど・・・ゴンを、返してくれるかな?」
クロロとの取引に応じるつもりのようで、紙束を手にした方と逆の手をクロロに差し伸べるヒソカ。
その態度は、ゴンにとっては意外に思えたが、クロロにしてみれば至極当然のことだと納得できるものだった。
クロロとの対決は、時期を見送ったとしてもいずれチャンスがあるかもしれないが、ゴンの命は失われればそれで終わりだ。
成長途中の者が一流の使い手に育つのを待つということが、ヒソカにとってどれほどの愉悦を孕んでいるのか。幼いゴンにはまだ理解できず、クロロには共感できる部分もあるヒソカの嗜好だった。
「古文書が、先だ」
ピュッと注射器の針の先から透明な液体を滴らせて、ゴンの首筋に針を近づけるクロロ。その注射器を見て、ゴンはおそらくこれが『エデン』なのだろうと、クロロがアクシス化学工場で薬を盗んできたのだと察する。
ヒソカは、チッと舌打ちしてクロロへ『ソーマの書』を投げて寄越す。
注射器を手にした左手でゴンの身体を拘束し直して、クロロは右手で紙束をキャッチする。チラリと物を確認してから、クロロは注射器をパリンと細い音を立てて投げ捨てた。
しかしクロロは、ゴンを抱く腕を、解かない。
「ゴンを"返せ"と言ったな? ヒソカ」
言葉尻を捉えてニヤリと笑むクロロ。
「それはつまり、ゴンはお前のモノだと・・・少なくともお前は、そう思ってるというコトか?」
挑戦的に、確かめるように尋ねるクロロ。
ヒソカは笑みを崩さない。
一方、クロロに拘束されたままのゴンは、足元に落ちた『エデン』の注射器の破片を見て、頭の中にひとつ、ある考えが浮かぶ。
『ソーマの書』があれば、一度『エデン』を打たれて二度と常人には戻れぬ中毒に冒された者も、救うことができるのではないか。『エデン』の精製法がそこに記されているのであれば、解毒方法もあるのではないかと気付いたのだ。
なんとか、クロロから『ソーマの書』を奪う手立てはないものか。少なくとも、此処で自分の身柄をヒソカに渡されても困ると、ゴンはチラリとクロロの手の内の古文書を見遣って懸念する。
ヒソカは笑んだまま、ゴンを見つめて言った。
「そうだね・・・その子は、特別僕のお気に入りだから♥ さあ、早く渡してよ。それとも、腕ずくで取り返しても良いのかな?」
ゴンを手元に取り返す為に、クロロと闘り合う。瞬時に思い描いたそのシチュエーションに興奮したように、熱を帯びた声でヒソカは告げる。
クロロは、一呼吸吐いて、静かに言い放つ。
「お前は、強い奴と闘うことが好きで・・・」
言葉を切って、クロロは愉しそうに、微笑った。
「俺は、他人のものを奪うのが、好きだ」
言い切ると、クロロはゴンの頭を抱き寄せて、不意に唇を奪った。
ゴンの唇に、舌に、噛み付くようにくちづけて、顔を離すと挑戦的な笑みをヒソカに向け、ゴンの身体を抱きかかえた。
「それが、大事なものであればあるほど、盗み甲斐がある」
クロロは鋭く言い捨てて、ゴンを抱えたまま瞬時に床を蹴り、部屋の窓を割って外へ飛び出した。パリン、と派手な音が静謐な夜に響く。
部屋に残されたヒソカは、ゆっくりと割れた窓辺に近寄って、出て行ったクロロの影を目で追った。影は既に小さく、遠方に離れてしまっている。しかし、ヒソカに二人を追いかける素振りはない。その様子は、愉しんでいるのか、不愉快なのか、判別のつかぬ無表情。
「ね、ねぇ『ジョーカー』、なんだったの、今の人たち・・・?」
二人が去ったところで、ベッドの中の女が問い掛ける。ヒソカを『ジョーカー』と呼ぶ女。
その呼称に、ヒソカは嘲笑を浮かべて振り返った。
「ああ、今更だけど、僕は『ジョーカー』じゃないよ♣ 僕は単なる奇術師だ♦」
「え・・・?」
怪訝な顔をする女に、ヒソカはチラリと窓の外に視線を向けてから言葉を続けた。
「本物の『ジョーカー』は、今の黒いコートの男だよ♠ 僕は、ただ単に彼の命令に従っただけ♠ ついでに言えば、今世間を賑わせている『ジョーカー』も、十中八九、彼の仕業だろうね」
ちなみに、と愉快そうにヒソカは続ける。
「キミが望んでいた"グリソム"の壊滅も、今の彼らが行ってくれたみたいだよ♠」
良かったね。ヒソカは大して興味もなさそうな笑顔を見せて女に告げた。クロロたちが訪れる前まで身体を繋いでいたとは思えないほど、ヒソカの態度はそっけない。
商売柄、女はそんなセックスにも慣れているつもりだった。愛の無い、肉欲処理としての行為。
それでも、目の前の男の心が此処に無いことを哀しく感じるのは何故だろうと、女は胸の痛みと共に思う。突然現れた今の二人組に対しては、あんなにも愉しそうに相対していたのに。
そんな女の心情を察するように、ヒソカは哀れみの表情を向けてやった。
「これでもキミには感謝しているんだ♦ キミの協力のおかげで、こうしてクロロが僕の元までやって来てくれたし、何より、ゴンまでおまけについてきた♥」
女を見遣ってそれだけ言うと、ヒソカは携帯を取り出して何者かに電話を掛け出した。
女は、その姿を無表情で見つめながら、下着を拾い上げて身に着ける。
「あ、もしもし♣ 僕だけど♠ 元気かい?」
「白々しいな。今、何処に居るんだよ?」
「リンドンに居るよ♦ キミの所業も全部お見通しだ♠」
「言っとくけど俺の趣味じゃないよ。仕事なんだ。標的だって、全部依頼人が選んでる」
「依頼人、ってクロロだろ?」
「そこは一応、守秘義務があるからね」
「イエス、と言ってるようなものじゃないか♣ ところで、金はクロロの倍払う♦ 頼みがあるんだ」
「何?」
「『ジョーカー』の傀儡は、まだ残ってる?」
「まだまだ居るよ。あと12人も」
「それはイイね♥ 総動員させて、派手に暴れておくれよ♦ 警察が・・・刑事の周辺が手薄になるくらい、派手に♠」
「・・・まあ、良いけど。一応、ウチは殺し業なんだけどな」
「キミと僕の仲だろう? つれないこと言うなよ♣ ところで、キルアもリンドンに来ているのかい?」
「居るよ。言っておくけど、キルに手を出したら、殺すよ?」
「勿論♪ 十分わかっているさ。キルアに会うことがあったら、伝えておいてもらえないかな?」
「・・・会えるかどうかわからないけど。何?」
「4時44分、ビッグ・ベン」
「ん、わかった。会えたら伝えておく。クロロには会えたの?」
「おかげ様で♦ ゴンまでおまけでついてきたんだけど、それもキミの仕業かい?」
「それは知らない。俺も驚いたよ。まさかリンドンにキルが居るとは思わなかったから、思わず『ジョーカー』壊しちゃったんだよね」
「そう、わかった♣ それじゃ頼むよ♦」
通話を終了するヒソカ。既に衣服を身に着け終えた女に視線を向けて、薄く微笑んだ。
「せめてもの、感謝の気持だよ♠ お膳立てはしてあげたから、キミの憎む男を殺しておいで」
言って、ヒソカは何処からかナイフを取り出して、ストンとベッドに突き立てるように落とした。
淡い光を受けて、キラリと銀色に輝く独特のフォームの刀身。初期型のベンズナイフ。
「ただし、自分の手でね♠」
冷たく、妖しく笑んで、言い放つヒソカ。
女は、その冷たい眼にゾクリとする。
かつて――――二年前、地獄のような日々から救い出してくれた男。返り血を浴びて、躊躇なく人間を殺していく姿は恐ろしくもあったが、とても美しかった。
地獄のような日常から解放されたのは良かったのだが、その後に待っていたのもまた苦痛の日々だった。小娘独りで生きていけるほど、世の中は甘くはなかった。娼婦に身をやつし、身体を酷使しても稼ぎのほとんどをマフィアに奪われる搾取の毎日。
またいつか、誰かが救いに来てくれるのだと、淡く期待していた日々だったが。
女は、ベッドに刺さったナイフの柄に両手を掛け、スッと抜く。
刀身に映る、自らの顔を覗き込む。
いつも髪の毛で隠すようにしている左側の頬には、おそらく一生消えることのない、青黒い痣の痕。見る度に、これを施した男への憎しみが募る。
「そうね・・・やるわ、自分で」
女は、決意したように呟く。
自分はもう、二年前とは違うのだと。部屋の片隅で泣いていることしかできなかった、無力な少女ではないのだと。
女が目を上げると、既にそこには男の姿はなく。
割れた窓の向こうに、冷たい光を湛えた月がぼんやりと浮かんでいた。
深夜の街を疾走するクロロ。どうやら、ヒソカが追ってくる気配は無い。抱えたゴンも、大人しく首にしがみついている。どちらも、クロロにとっては意外だった。特に、ゴンの様子は解せない。
(もっと、抵抗されるかと思ったがな)
まさか寝ているんじゃないだろうな、などとクロロが不安に思った途端に、ゴンはクロロの肩をポンポンと叩いた。
「もう・・・良いだろ? オレ、自分で走れるよ」
小声で囁くように告げたゴンの声を耳にし、クロロは街の広場で足を止め、ゴンを降ろした。そのゴンの表情は、複雑そうに見える。
「随分、大人しいな? どうかしたか?」
無理矢理唇を奪っておいて、その言い草はないだろうというところではあるが、ゴンは「別に」とそっぽを向く。
クロロからどのようにして『ソーマの書』を奪うか。そればかりに頭を巡らせていた為、成り行きに抵抗する余裕もなかったゴンである。
だが、先ほどのやり取りを思い出して、ゴンは不機嫌そうに呟いた。
「・・・ヒソカから逃げる為に、オレを利用したんだね?」
ゴンの言葉に、クロロは「そうだな」とそっけなく答える。
「どうして、逃げるの?」
闘ってやってもいいのでは、とゴンは単純に思う。その結果、どちらに軍配が上がるのかはゴンも全く予想ができないが。
「・・・さっきも言っただろう? 俺は、盗むのが好きなんだ。だが、アイツはそう簡単に盗ませてくれそうもないからな。俺にとっては、おそらく時間の無駄だ」
「??」
クロロの言葉にゴンは首を傾げるが、クロロは特に言葉を加える様子はない。相手の能力を盗む、というクロロの特質系の能力について言っているのだが、流石にそこまでゴン相手に説明してやる必要はない。
「本来だったら、此処でお別れのつもりだったんだがな」
ほんの僅かに困ったように首を傾げて、クロロは静かにゴンを見下ろす。クロロとしては、『ソーマの書』を取り戻し、ゴンを盾にヒソカをやり過ごすことができれば、それで目的は完遂されたはずだった。
しかしこうしてゴンを再び攫ったのは、ヒソカへの当てつけか、もしくは――――
クロロは、ゴンの腰に手を回して、そっと抱き寄せるような形で告げた。
「なあ、ゴン・・・『蜘蛛』に入れ」
「・・・! 絶対に嫌だ!!」
過去、ノブナガに勧誘された時と同じ反応を返すゴン。クロロという男にどれだけ興味を持ったとしても、それだけは絶対にできないとゴンは頑なに思う。
しかし、クロロは諦めない。
クロロは、ゴンの絶対に動かぬ強い意志を秘めた眼差しを捉えて、そっと頬に手を触れた。
ゴンの腰に回した手はそのまま、まるで月夜にダンスを踊っているような姿で、クロロは言った。
「お前はいつか、世界を許せなくなる日が、きっと来る」
死神による死の宣告のように、暗く告げるクロロ。ゴンは、吸い込まれるようにクロロの漆黒の瞳を見つめる。
クロロは、純粋でまっすぐなゴンの心を想う。
「お前のその純粋さ故に、世界を憎む日がいずれ訪れる。世の中は、お前の心が綺麗なままで居られるほど、単純でもないし、美しくもない。だが、どんなに醜い欲望や汚れた現実に翻弄されても、きっとお前は自分を曲げることはできないだろうから――――代わりに、世界を憎むことになる」
「ふざけるなっ・・・そんなコト・・・!」
「絶対に無い、なんて言い切れるのか? 未来のことは、誰にもわからない」
そう言いながらも、まるで先のことが見えているかのようなクロロの言い種に、ゴンは思わず言葉を詰まらせる。
「その時が来たら・・・『蜘蛛』はいつでも、お前を歓迎するよ」
黒衣の、悪魔が囁く。呪いの言葉は、まるで未来永劫ゴンを捉える蜘蛛の糸のように、柔らかく絡みつく。
クロロの静かな眼に絡め取られ、まるで身動きが取れなくなってしまったように、ゴンはジッとクロロの眼を見つめ返すことしかできない。じわじわと、言葉が、クロロの眼差しが、ゴンの内部へ侵入していく。それを否定できる確たる根拠も、抵抗する術も、今のゴンには持ち得なかった。
今更になって、ゴンはキルアの忠告を素直に聞いておけばよかったと悔やむ。
『逃げられない』
無意識に直感して、ゴンは絶望に似た感情に陥る。
三日月が、笑う。夜明け前、最も暗い昏い時間に、冷たく妖しく、月は冴え冴えと輝く。
その時、不意にクロロが手にしていた『ソーマの書』からオーラがポンと立ち上った。
何事かと二人で覗き込むと、古びた紙でできていたはずの巻物は、新しいコピー用紙のような材質の紙に変化していた。クロロは即座に、結び紐を解いて開いてみる。
そこに、書かれていたのは。
『ビッグ・ベンで待つ♠ 本物は、ゴンと交換♥』
流石ヒソカと言うべきか。してやられたとクロロはにんまり笑んで、ゴンと顔を見合わせる。
困ったような、神妙な顔をして、ゴンはひとつ大きく頷いた。