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最初に感じたのは、微かな消毒液の匂い。
次いで、閉じた瞼の裏に光を感じる。
ゴンは、重たい瞼をうっすらと開けた。クリーム色の天井が視界に飛び込んでくる。ゴンは、そのまま眼だけをぐるりと動かした。
右手は天井と同じ色の壁、窓には刺繍をあしらった若草色のカーテンが掛けられている。
そして、左手には。
「・・・・・・」
ゴンが寝ているベッドにちょこんとあごを乗せた少女が、真剣な眼差しでジッとゴンを見つめていた。
三、四歳くらいだろうか。大きな大きな瞳で、ゴンの様子をただ見つめている。
「え、えっと・・・」
少女の大きな瞳の視線に耐え切れなくなり、ゴンがたじろいで声を発すると、少女はクルリと振り返って部屋の外に向けて大声を上げた。
「おかぁーしゃ、おかーーしゃ! おにーちゃ、おきたーー!!」
そう叫ぶと、少女はドアへ向けてトテトテと走り出し、部屋から出て行った。ゴンはその様子を、呆気に取られたように見守っていた。
改めて、部屋の様子を伺うゴン。
オレンジ色の絨毯の、暖かな印象の部屋。キャビネやランプシェードにはパッチワークや刺繍をあしらったカバーがかけられており、人の温もりを感じさせる一室だった。
ベッドから起き上がろうとして、ズキンと走る痛みにゴンは顔をしかめる。
自分の身体をよくよく見てみれば包帯だらけだ。特に脇腹と首筋には大きなガーゼを充てられていた。敵と闘い、深手を負ったことは覚えている。
そして、敵がヴァンパイアであり自分は噛まれて血を吸われたことを思い出して、ゴンは思わず広げた自分の両手をじっと見つめた。
映画や伝承では、吸血鬼に噛まれるとその仲間になってしまうのではなかったか? ひょっとして自分は、一度死んでヴァンパイアとして蘇ってしまったのではないかと思い至り、ゴンはひとり焦り慌てる。
弱った表情で眉毛を八の字に下げて、自分の身体が本当に自分のものなのかを確かめるように、じっと見つめた掌を握ったり開いたりしてみる。
ゴンがベッドに上半身を起こした状態で不安混じりに自身の身体を確かめていると、コンコンッとドアをノックする音が聞こえた。
どんな事情で此処に寝ていたのかまったくわからないが、先ほどの子供が母親を連れて戻ってきたのだと思い、ゴンは「ハイ」と遠慮がちに返事をする。
しかし、カチャリと音を立てて開かれたドアから現れた長身の姿は、ゴンもよく見知った予想外の人物のものだった。
「やあ、ゴン♦ 久しぶりだね♥」
開いたドアの鴨居をくぐるように長身を屈めて部屋に入ってきたのは。
「えっ・・・えっ!? ヒ、ヒソカッ!?」
髪を下ろし化粧もしていない姿だったが、特徴的な話し方や声はまごうこと無きヒソカ本人のものだった。
突然の知り合いの登場に、ゴンはただただ驚いて呆然とヒソカの顔を見つめてしまう。
ヒソカはいつもの如く、何を考えているのかよくわからない薄笑みを口元に浮かべながらゴンに近づき、ベッドサイドに置かれた木の椅子に腰掛けた。
表情を強張らせ、警戒してヒソカを見つめるゴンの頬を、指でそっと撫でる。
ビクリと震えるゴンに、ヒソカはククッと喉を鳴らして愉快そうに笑んだ。
「折角、キルアに助けてもらったんだろう? すぐに無茶をして、また壊したらダメじゃないか♣」
ダメじゃないか、などと言いつつ、諭すどころか愉しげな口調でヒソカがそう囁くと、ゴンの頬に当てた指をツツと下へさげ、顎を通って首筋のガーゼの上へ手を添えた。
痛みは感じないが、ヒソカであればこのままゴンの傷口に指を埋めることくらい簡単にしてのけるだろう。
ゴンは快と不快の間にあるような緊張感を抱いて、ゴクリと唾を飲んでヒソカをギリッと睨んだ。
そんなゴンの視線を、ヒソカは嬉しそうに受け止める。
「・・・そんな眼で見つめるなよ、ゴン♦ 照れるだろう♥」
ゴンの心情に対し、的外れな言葉を吐いてみせる男にゴンはグヌヌと歯噛みして「一体、何の用だ!」と噛み付くように叫ぶ。
ゴンの反応に、一瞬「おや♠」というようにわざとらしく驚いて見せたが、ヒソカは再びククッと愉しそうに笑いながら言った。
「そんな態度を取って良いのかい、ゴン? 命の恩人に向かってさ♦」
「・・・命の、恩人・・・? ヒソカが・・・?」
訝しげにおずおずと尋ね返すゴンに、ヒソカは「そうとも♥」と胡散臭い爽やかな笑みを向ける。
その笑顔がますますゴンの不信感を煽って、ゴンは更にムーーッとしたふくれっ面を浮かべる。
「キミを助けたのも、敵を倒したのも、意識を失ったキミを此処へ連れて来たのもみんなボク♥ ついでに・・・♣」
言いながら、ヒソカはゴンの首筋から肩を通って指を這わせ、左腕の内側、肘の関節の裏側辺りを指でなぞった。そこには小さな絆創膏が貼られている。
ヒソカは、ゴンの耳元に唇を寄せてわざとらしく低い艶やかな声で囁いた。
「ココから、キミのナカに体液を注ぎ込んであげたのも、ボ・ク♥」
肘の裏側を人差し指で撫でながらそう囁くヒソカの言葉に、ゴンはこれ以上ないくらいゾゾゾっと鳥肌を立てる。
「う、うわあぁぁ!? な、なに、どういうこと、オレに何したのっ!?」
本気で気色悪がるゴンの様子を見て、ヒソカは顔を離して嬉しそうにクスクス笑う。
「ナニって、言葉通りさ♦ ボクのを、キミのナカにたっぷり注ぎ込んであげたんだよ♥」
「えええっ!? 何それ気持ち悪い!」
「・・・♠」
ヒソカが何のことを言っているのかよくわかっていないゴンだが素直な心情を口にすると、流石のヒソカもム、と表情を歪める。
するとそこで、コンコンと再びノックの音が部屋に響いた。「どうぞ♣」と返事をしたのは何故かヒソカで、ゴンに触れていた指を離してドアの方を振り返った。
ドアを開けたのは白衣を着た若い男だった。眼鏡を掛け、優しそうな印象の青年だ。その後ろにややふくよかな色白の若い女が続き、女の足元には先ほどの大きな瞳の少女が佇んでいる。
「良かった、目が覚めたんですね」
男が優しそうな笑みを浮かべてゴンに話し掛ける。
ヒソカが黙って席を立つと、男はヒソカに対して会釈をしてから木の椅子に座り、ゴンの顔をじっと見つめて両手で顔を包み、親指で下瞼をぐっと下げる。
「・・・うん、もう大分良さそうですね」
瞼の裏側の血色を確認して、笑顔で頷く男。
どうやら医者のようだが、柔らかな物腰と言葉遣いがどことなくウイングを彷彿とさせ、ゴンは無意識に安心感を抱く。
「あ、あの・・・オレ・・・」
一体何がどうなって此処に居るのか。
意識を失ったゴンをヒソカが連れて来てくれたと言うが、それならば此処は一体どこなのか。
尋ねたいことを山ほど抱えながらゴンがモジモジしていると、医者らしき若い男はニッコリと微笑んだ。
「良かったですね、ヒソカさんに見つけてもらえて。レオポルドに襲われても尚、助かった人が居ると解れば、我々の長老も喜びます」
「・・・レオポルド? 長老?」
解らない単語が続々と出てきて、ゴンは難しい顔をしながら首を横に傾げるばかりだ。
そんなゴンの様子を見兼ねて、ヒソカが横から「説明は、後でボクが♦」と医者とゴンに告げる。
そう言われてから医者は「ああ、そういえばそうですよね、何もわからないままこんなところで目が覚めてもびっくりしちゃいますよね」と柔らかい笑顔を浮かべて言った。
「此処は我々の村にある病院・・・と言っても、私の自宅と兼用なのですが。ですから、この部屋も病室というよりは、半分客室のようなものですので、どうぞごゆっくり。私は医者のオルト、こちらは妻のシエナと娘のチナです。何かあればご遠慮なく呼んでください」
オルトと名乗った男は笑顔でゴンに語り掛ける。紹介を受け、ゴンもおずおずと「ゴンです」と自己紹介をする。
ちらりと医者の背後に居るシエナに目線を送ると、こちらも愛想良くニッコリと笑みを返してくれてゴンは更に安堵する。
「それにしても、ヒソカさんが君と同じ血液型で本当に良かった。ヒトの血が無ければ、我々では手の施しようも無かったです」
『ヒトの血が無ければ』。意味深なことを言いながら、オルトは席を立った。
「傷自体はそう深いものではないので、一週間もすれば動けるようになるでしょう。それまでは、どうぞ安静に。では、私は一旦失礼しますね」
ゴンとヒソカに背を向けて部屋から出て行くオルト。
次いでシエナも出て行こうとするが、足元にしがみついたチナが何故か動こうとしない。「ホラ、行くわよチナ」と母親が促すが、娘はジッとゴンを見つめている。
ゴンは、安心させるように微笑んで手を振って見せた。
「ありがとう、チナ。また後でね」
そうゴンが声を掛けると、チナはパアァっとものすごく嬉しそうな笑顔を浮かべて、大きくかぶりを振った。バイバイ、というように手を振って母と共に部屋を去って行く。
腕を組んでその様子を見守っていたヒソカが、二人が出て行った後に茶化すようにゴンに言った。
「困るなぁ、あんなに小さい娘までタラシこんで♠ ボク、妬いちゃうよ♣」
その言葉に『何のこと?』と言わんばかりの不思議そうな顔でゴンは首を傾げるが、オルトの言を思い出し慌てて言葉を添えた。
「あっ、ヒソカ・・・さっき言ってたのって、ヒソカがオレに輸血してくれたってことだったんだね・・・あの・・・気持ち悪いとか言って、ごめんなさい。あと、その・・・ありがとう・・・」
言い難そうに申し出たゴンに対し、ヒソカはニッコリと笑んで「どういたしまして♥」と機嫌良く答える。
「それで、あの・・・オレって、あの後どうなったの? ヒソカが助けてくれたの?」
カーテンから零れる日差しは強く、陽はまだ高い位置にあるようだ。ゴンが数日間寝込んでいた可能性も無くは無いが、ゴンが敵と闘い傷つき倒れたのは昨夜のことだったと考えるのが自然だとゴンは判断する。
ヒソカは再びベッドサイドの椅子に腰を下ろし、ジッとゴンの顔を見つめた。しばらく無言でゴンの顔を見つめていたヒソカだったが、やがて微笑を浮かべて「そうだよ♪」と答える。
「・・・どうして、助けてくれたの? たまたま?」
尋ねながら、流石にそれは無いよなとゴンは思い直す。偶々、ゴンとヴァンパイアが闘っている場所にヒソカが通り掛るなど、偶然だとしても有り得ない。
案の定、的外れなゴンの言葉にクスクスと笑い出したヒソカは、やがて笑いを収めてから言い含めるようにゆっくりと告げた。
「キミが闘っていた相手は、ボクの獲物だったのさ♠」
「えっ?」
予想外の返答に、ゴンは驚きの声を上げる。
逆にヒソカは、予想通りのゴンの反応に機嫌を良くして更に言葉を重ねる。
「ちなみに今ボクたちが居るこの村は、ヴァンパイアの村。さっきの医者も女性も子供も、みんなヴァンパイアさ♦」
「・・・・・・」
ヒソカの説明に、ゴンは言葉を失くして口を開けたまま押し黙ってしまう。
先ほどの、人の好さそうな医者や妻や、純粋そのものの女の子がヴァンパイア?
「嘘・・・あの人たちが・・・それじゃ、あの人たちが・・・ヴラド村の人たちを、子供の血を吸って殺したりしたの?」
やや顔を蒼白にしてゴンが恐る恐るヒソカに尋ねる。その様子を見て、ヒソカは悪戯めいた笑みを口元に浮かべる。
「さぁ、どうだろうね♣」
「・・・っ!? ヒソカ!」
そう長い付き合いではないが、ヒソカがこんな風にはぐらかすのは本当のことを知っているからだとゴンは直感する。
ゴンが咎めるようにヒソカの名を呼ぶと、ヒソカは悪戯がバレた子供のようにクスクスと笑った。
「さぁ・・・少なくとも彼らは村人を襲ったりはしていないんじゃないかな♦ ここ最近、人間を襲っていたのはキミが闘っていた相手、レオポルドとかいうヴァンパイアらしいし♠」
ヒソカの興味はあくまで、自分の話によってめまぐるしく変化するゴンの反応にあるらしく、ヴァンパイア自体にはあまり興味が無い様子でそっけなく話す。
一方ゴンは、先ほどオルトが言っていた「レオポルド」という単語が腕の異様に長いあの吸血鬼のことを指していたことを知り、ひとつ腑に落ちたように感じた。
「ボクはこの村の長老から、そのレオポルドなる吸血鬼を捕えるよう依頼を受けた♠ 人間を襲って喰らうヤツは、ヴァンパイアの中でも異質な存在だったらしい♣ この村の地下牢に捕えてあるよ、後で見に行くかい?」
非常に軽い口調で誘うヒソカ。
ゴンは、自分に重傷を負わせた相手をいともたやすく「捕えた」と言い放つヒソカに対し、軽い妬みと憧れのような複雑な感情を抱く。
「別に・・・いい」
不貞腐れたように呟くゴン。ヒソカは、ゴンの心情をよくよく理解した上で、「そうかい?」と白々しく残念そうに返事をしてみせる。ムッと不機嫌そうな表情を浮かべるゴンだったが、他にも聞きたいことは山ほどある。大変ご機嫌な様子のヒソカに、ゴンは渋々といった態で質問を続けた。
「ねぇ、オレ、アイツに噛まれちゃったけど、別に吸血鬼になっちゃうわけじゃないんだよね? 人間のままだよね? だからヒソカが血を分けてくれたんだよね?」
やや切羽詰った表情でゴンはヒソカに確認する。
その真剣な表情にヒソカは再び悪戯心をくすぐられるが、この場は大人しくゴンの不安を払拭してやる。
「そうだね♣ 人間はヴァンパイアに吸血されても彼らの仲間にはならないらしい♠ 彼らが人間を仲間に引き込む唯一の方法は、性交渉だそうだよ♥」
「せいこうしょう?」
聞き慣れない単語に首を傾げるゴンに、ヒソカはクスクス愉しそうに笑ってゴンの耳元で「エッチなコト♥」と吐息混じりに囁く。
すると、ゴンはあからさまに慌てた様子でワタワタと声を上げる。
「ふぇあ!? あっ、ああっ、そうなんだ・・・!?」
顔を真っ赤にしてアワアワするゴンと、その様子をニマニマ見つめているヒソカと。
更にからかってやりたい気持を堪えて、ヒソカは笑みを浮かべながらも気を取り直したように尋ねた。
「ところでキミはどうしてあのヴァンパイアと闘っていたんだい? 村人にヤツの退治を頼まれたとしても、彼らが敢えてキミに依頼する理由がわからないな♣」
尋ねられたゴンはアッという顔を見せる。
「ううん、村の人に直接頼まれたんじゃなくて、依頼を受けたハンターに『一緒に敵を倒そう』って誘われただけだよ。オレがあの村に立ち寄ったのは、本当に偶然だし」
特に秘密にしなければいけないことでもないので、あっさりと素直に話すゴン。
ゴンが不要な嘘を吐くタイプではないことを重々承知しているヒソカは、ふむ、と納得した後、ニィと笑った。
「そう♥ それじゃ、キミの獲物とボクの獲物がかぶっていたのは単純に偶然だったってコトか♠ ねぇゴン、やっぱりキミとボクは運命の赤い糸で結ばれているのかも♥」
うっとりと語るヒソカに、ゴンは眉根を寄せてウッと怯む。
ヒソカはピンと立てた人差し指の先に、ピンク色のオーラでハートマークを作りながらゴンに告げた。
「動けるようになったら、この村の長老の所へ案内しよう♦ キミと話をしたがっていた♠ それじゃ、イイコで休んでいるんだよ♥」
フッと笑顔を見せ、大きな手でゴンの頭をポンポンと撫でるヒソカ。
子供扱いされる苛立ちと、大きな掌が存外に温かな感触であることへの驚きが入り混じり、ゴンは複雑な気持になる。
そんな気持を抱えたままゴンは、パタン、と閉じられたドアを暫くジッと見つめていたのだった。
医者が一週間と言えば、ゴンにとっては二日で十分だ。
元々傷自体はそれほど深くなく、重傷だったのは急な失血によるショック状態だった為だ。それも(ゴンにとっては不本意ながらも)ヒソカが輸血してくれたこともあり、体調に問題は無い。
ゴンの傷は翌日には痛みも消え、歩き回るのには何の支障も無い程度には回復していた。
ベッドから起き上がり、部屋から出て廊下をひょこひょこと歩き回るゴンの姿を見かけた医者の妻のシエナが「まだ寝ていないとダメよ!」と顔を真っ青にして声を上げたが、ゴンは血色の良い顔でニカッと笑って見せて「大丈夫! もう全然痛くないよ! オルトさんの治療が良かったんだよ」と元気に言ってみせる。
しかし、治療の良し悪しの問題ではないレベルの回復の早さに、シエナはまるで人外の生物を見るような目でゴンを見ていたのだった。これでは、どちらがヴァンパイアかわかったものではない。
その声を聞きつけて、長身の青年が廊下に顔を出して声を掛ける。
「おや、ゴン♥ 流石だね、もう動けるようになったのかい?」
ニコニコ、満面の笑みで白々しく声を掛けてくるヒソカに対し、ゴンは瞬時にムムムッとむくれて鋭い目線を向ける。
というのも、昨晩ゴンはやむなく狭いベッドでヒソカと一緒に寝る羽目になってしまったからだ。
元々、オルト医師の家に厄介になっていたのがヒソカで、ゴンが寝ていた病室も本来はヒソカが客人として使っていたものだったが、もう一人客(しかも怪我人)が増えたところで他に空いている部屋は無し。怪我人であるゴンを追い出すわけにもいかず、かと言って悪鬼レオポルドを見事捕獲してみせた、長老の客人でもあるヒソカにリビングのソファで寝てくださいとも言えずほとほと困り果てていたオルト夫妻に対し、ヒソカはまるで善意の塊のような笑顔で言ってのけたのだ。
「だったら、ボクがゴンと一緒に寝れば良い♥ 多少狭くても大丈夫、ボクたちとっても仲良しだから♥」
ゴンの命を助けたヒソカが言う『仲良し』を、兄弟的な意味に捉えた夫妻は、それなら、と安心してヒソカの提案を受け入れたのだった。
ゴン以外の者にとってすべてが丸く収まった一夜に何が起こったか。それは推して知るべしである。
「それなら、長老の所へ行こうか♦ あのジイさん暇そうだから、キミが来れば喜ぶんじゃないかな♠」
シエナも居る場で他人様の村の長を『ジイさん』呼ばわりするヒソカの無遠慮さにゴンは肝を冷やしたが、当のシエナは特に気にする様子も無く「本当に大丈夫なの? 痛みは無い?」とゴンのことをしきりに心配している。その優しさがなんとなくミトを思い出させ、ゴンは少しだけ甘酸っぱい気持を感じながら「大丈夫だよ、シエナさんありがとう」と再度笑顔を見せる。
ふとゴンが視線をずらせば、キッチンに隠れるようにして顔だけ廊下に覗かせている娘のチナと目が合った。安心させるようにゴンがニッコリと微笑みかけると、幼女はパアァァっと嬉しそうに笑う。
チナは昨日、ヒソカが去った後に再びゴンの部屋を訪れ、トイレや食事以外の時間をずっとゴンのベッドサイドで過ごしていたのだ。本人としては、看病していたつもりなのだろう。
「おにーちゃ、元気になった? チナと遊んでくれる?」
扉に身を隠したまま、顔だけ覗かせた状態でチナはゴンにおずおずと尋ねる。そんな娘に対し、母親は「チナ! ダメよ、ゴン君はまだ・・・」と言い掛けるが、ゴンはそれを制して「うん、もう元気だよ! チナがずっと看ていてくれたおかげだね、ありがとう」と優しく声を掛ける。すると幼女の顔はますます嬉しそうにパアァァっと輝きを見せた。
「でも、今からちょっと出掛けてくるから、帰ってきたら一緒に遊ぼうね」
少しだけ困ったようにゴンがチナに告げると、幼女の顔の輝きは一瞬にして曇ってしまう。その顔にはまるで『ガッカリ』という文字が書いてあるかのようだ。
それを見てとって、ゴンは慌ててチナに歩み寄り、傍らにしゃがんで小指を出した。
「大丈夫、すぐ帰ってくるから、そしたら遊ぼう? ほら、約束」
「やくしょく?」
小首を傾げる幼女に、ゴンは満面の笑みで頷いて同じように小指を出すよう促す。そうしておずおずと差し出された小さな小さな小指にゴンは指を絡めて、おなじみのフレーズを口にする。
「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます、ゆびきった」
そしてゴンは、チナの小さな親指に自分の親指をくっつけて「誓いのチュー」をしてみせる。チナはそれをポカンと見ていたが、すぐにまた嬉しそうに顔を輝かせてキャッキャと喜び出した。その様子を見てゴンも安心し、「それじゃ、行ってくるね」とチナの頭を撫でながら立ち上がる。
少し名残惜しそうな顔を見せつつも、チナは素直に「いってらっしゃい」と手を振った。
ゴンがヒソカを促す為に振り返ると、ヒソカはなにやら含みのある笑みを浮かべて、一連の様子を眺めていたのだった。
「あの子供、ボクには全く懐かないよ♠」
長老の家へ向かう道中、ヒソカが何の感慨も無くボソリとゴンに告げた。チナのことを言っているのだろう。物影に隠れるようにしながら顔だけ覗かせていたのは、ヒソカのことが苦手だったからかもしれない。
その言葉に、まぁそうだろうな、と思ったゴンは「うん、ヒソカって子供に嫌われそうだもんね」と素直な心情を口にする。遠慮の無い言い種にヒソカは苦笑を浮かべたが「・・・まぁボクも子供って好きじゃないし♣」と、本音なのだろうが何故か負け惜しみのようにゴンに言い返した。
好きじゃないから嫌われるのか、嫌われているから好きじゃないのか、どちらにせよヒソカが子供と戯れる姿などゴンには到底想像もできず、タハハと苦笑を零す。
そのやり取りの中で、ゴンはふと気づく。
(そうか、オレも子供だから)
「だからオレ、ヒソカのことあんまり好きじゃないのかな」
「でもボクは、ゴンのことは好きだけどね♥」
・・・・・・。
同時に言い放った正反対の言葉に、二人とも思わず一瞬沈黙する。
やがてゴンは苦笑いを浮かべて首を傾げ、ヒソカはクスクス笑いながら「酷いなぁ♠」と愉しそうに呟いた。
吸血鬼の村の規模はとても狭く、ヴラド村の四分の一も無い程度だ。道幅は広いが舗装はされていない。立ち並ぶ家も木造の質素なものばかりだが、どの家にも必ず広い庭か納屋があり、羊や山羊などを飼っているようだった。
道行く者の姿はまばらだが、途中で何人かとすれ違い、その全てがヒソカの姿を見かけると恭しく目礼をしていた。その様子は客人を礼儀正しく迎える姿勢に他ならず、凶暴性の欠片も無い。見た目にも普通の人間と変わらぬ者たちばかりで、彼らが本当にヴァンパイアなのかとゴンは不思議に思う。
「ねぇヒソカ、ここの人たちって本当に全員吸血鬼なの?」
隣を歩くヒソカにこそこそと小声で尋ねるゴン。
ヒソカは何故かどことなく得意げに「うん、そうだよ♠」と返事をする。
「確かにその響きが凶悪さをイメージさせるけれど、此処に住む者たちは都会に暮らす下手な人間たちより余程無害だ♦ 彼らは人の血を口にしないらしい。代わりに家畜の血を啜る♣ 村人が動物を飼育しているのは乳や肉の為ではなく、少しずつ血を採る為だそうだ♠」
ヒソカの説明に、ゴンは「へぇー」と驚いて目を丸くする。
よく知っているものだとゴンはヒソカに対して感心するが、当のヒソカはゴンの反応を愉しんでいるだけのようで吸血鬼そのものにはほとんど興味が無さそうだ。
その理由もあらかた察しがつくので、ゴンはそれを確かめるべく質問を投げ掛ける。
「あの化物はすごく強かったけど、ここの人たちはそんなに強くないの?」
ヒソカは弱者に興味が無い。ゴンが尋ねると、案の定ヒソカは「そうだね♠」とつまらなそうに答えを返した。
「あのレオポルドとかいうヤツは異端児というか、異常者というか、そういう存在だったようだよ♣ 吸血鬼というくらいだから、人間よりも生命力は多少強いみたいだけどどうやらそれだけだ♠ キミみたいに美味しそうな子は皆無だね♦」
ペロリと舌なめずりをしてゴンを見下ろすヒソカだったが、ゴンは全く気にも留めずに「へぇ、そうなんだー」とヒソカの言葉を素直に咀嚼していた。
やがて一際小ぢんまりとした家の前に辿り着き、ヒソカは「此処が長老の家♦」と説明する。
「ボクは外で待っているから、ちょっと話相手になってやりなよ♠」
ぞんざいな口調でヒソカがぼやく。おそらくヒソカは、子供だけでなく年寄りの相手も得意ではなさそうだ。
「うん、わかった! ありがとうヒソカ!」
笑顔で告げると、ゴンは小走りに玄関へ向かいドアをノックする。「どうぞ」と張りのある声が届いた。
「おじゃましまーす」
ドアを開けながら遠慮がちに挨拶をするゴン。家の中はやや薄暗いが、土と木の自然な優しい香りがゴンの鼻腔をくすぐる。
オルト医師の家もそうだったが、吸血鬼というくらいだからもっと血生臭い住まいかと思いきや、どこの家も家庭的な温かい匂いが漂っていた。むしろヒソカの方が余程血の匂いが濃いというものだ。
「奥へどうぞ」
凛とした声が部屋の奥から聞こえてきたので、ゴンは声のする方向へ足を進める。
短い廊下の奥、小さな部屋の座敷にちょこんと座っていたのは家のサイズに適した小さな老人だった。ベージュ色の綿パンツと麻のシャツにグレーのベストという何処にでも居そうなありふれた服装の老人は、座布団の上に胡坐をかき、眼鏡の奥の小さな眼を嬉しそうに細めてしわくちゃの笑顔を見せた。
「ホッホッホ、ようこそようこそ。お元気になられたようで何よりですじゃ」
手招きをするような形で、ゴンに座れと示しながら老人は嬉しそうに語り掛ける。ゴンはそれに従い、小さな座卓の老人の右側に正座をして座る。
「お名前は、なんとおっしゃられるのですかな?」
相好を崩したまま、まっすぐに見つめて尋ねる老人に、ゴンは礼儀正しく「ゴン=フリークスです」と答える。
「そうですかそうですか、良いお名前ですな」
ニコニコと嬉しそうに告げる老人に、ゴンは少し照れたように「ありがとうございます」と返す。
あまりにも人の良さそうな老人の口調と態度は、逆にどう応対したら良いものか戸惑いさえも感じさせる。これでは、ヒソカであれば尚更相手をするのに苦労しただろうと、ゴンはぼんやりと思った。
老人は細めた目を少しだけ開き、完全に白髪に覆われている頭を下げた。
「まずは、お詫びを申し上げなくてはなりませんな。我々の一族から、おぞましい殺人鬼を出してしまった挙句に、尊い命をいくつも奪ってしまった。貴方にもお怪我を負わせてしまい、本当に申し訳なく思っております。許してくれとは申せませんが、一族を代表して心よりお詫び申し上げます」
丁重に頭を下げられ、ゴンは慌ててしまい「頭を上げてくださいっ」と遠慮がちに声を掛けることしかできない。長老は一族の代表かもしれないが、ゴンはいくら怪我を負ったとは言えただの客人に過ぎない。頭を下げてもらうには立場が釣り合わず、ゴンは完全に恐縮してしまう。
ようやく頭を上げた老人に、ゴンはここへ来るまでの村の様子について思ったことを率直に老人に伝えてみた。
「あの・・・ヒソカから、ここの人たちは吸血鬼だって聞いたんですけど、みんな全然そんな風に見えなくて、ちょっと驚いています」
素直なゴンの言葉に、老人は再び相好を崩して「左様でございますか」と感慨深げに呟いた。
「私とて、元々人を喰わなかった訳ではないのです。若い頃、生きることのみに執着していた頃は、人を喰うことにためらいなどありませんでした。おそらくあなた方が豚や牛を食すのと同じ感覚だったことでしょう。ですが、我々とて生殖行為で子を為さなければ、種の保存ができませぬ。やがて仲間が増えていく過程で、互いを思いやる気持を知り、独りでは生きてゆけぬ者が現れ始めました。その気持を、あなた方は『愛』と呼ぶのでしょうか」
どこか懐かしむように眼を細めて語る長老の言葉を、ゴンは神妙な顔つきで聞いており、ひとつコクリと頷いた。
「幸いというか、残念ながらというべきか、我々にはあなた方人間と同じ程度の知性がありました。そこで、誰かが気付いてしまったのです。我々が今まで生きる為に食してきた人間にも家族や愛する者が居たことに。そして幸か不幸か、『愛』というものを知ってしまった故に、私は人を喰うことができなくなりました」
幸か不幸か。その言葉がゴンの耳に残る。
「しかし、当然『愛』を理解できぬ者もおりました。美味い餌を断ち泥臭い獣の血を啜るなど、一族としての誇りは無いのかと詰る者もおります。そうして我々は同じ種族の中で争い、分断されながらも、やがて私たちは『人の血を吸わぬ吸血鬼』としての集落を築き、各地を転々と旅しながら細々と暮らしておるのです」
穏やかに語る長老の言葉を、引き続き神妙な顔つきで聞き入るゴン。
彼らは、元々人の血を吸わぬ種族だったという訳ではなく、様々な事象や争いを経て現在のような生き方を選んだということなのだろう。
『愛』など知らずに全ての仲間が人を食糧として捉え続けることができていたら、同族同士で争うことも無かったのに、と彼らは思うのかもしれない。
「それじゃ、ここ以外には人の血を吸うヴァンパイアも居るってことですか?」
ふと思いゴンが尋ねると、長老は二度ゆっくりと頷いてから「左様でございます」と返す。
「群れを為している者、単独で行動している者、生き様は様々でしょうが世界各地に我々の仲間は生息しております。人の生き血で命を永らえることに何のためらいもなく、今日も彼らはどこかで人を殺めているでしょう。けれど、我々はそれに心を痛めることはできても、それを咎める資格も止める術も持ち合わせておらんのです」
哀しそうに苦々しく呟く長老。自分の質問が嫌な気持にさせてしまったと思い、ゴンも少し気分が沈んでしまう。
それを晴らすように、意識して少し高めの声でゴンは更に尋ねる。
「ってことは、あのレオポルドとかいうヤツも、元々はここの村の仲間じゃなかったってことですか?」
この村の者は人を食べないという。ならばゴンの相対したレオポルドは他所のヴァンパイアであり、しかし同族のよしみでヒソカに捕獲を依頼したということなのだろうか。
そう推察して尋ねたゴンだったが、思惑は外れ、長老の顔つきは更に苦々しいものに沈んでいった。
「いえ・・・あの子はこの村の者です。私の、曾孫に当たりますな」
「えっ・・・」
予想外の言葉にゴンは息を呑む。
ハァと長老はひとつ息を吐き、そこで「おや、これはこれはお客人相手にお茶も出さずに失礼でしたな」と急に思いついたように告げて、よっこらしょ、と言いながら席を立つ。ゴンが慌てて「おかまいなく!」と声を掛けても、老人はまるで気に留めずよろよろと台所へ向かう。
暫くして出てきた、老人が淹れたと思しきお茶は大分濃い緑色をしていたが、「いただきます」とゴンが口を付けてみると渋みも無く、ゴンはホッと安らいだ気持になる。
老人も美味そうに自身の淹れたお茶を啜りながら、「さて、どこまで話しましたかな」と記憶を辿るように独りごちた。
「そうそう、ヒソカ殿の目的は元々は私にあったのですよ」
長老の思い掛けない言葉に、ゴンは再び「えっ?」と驚きの声を上げる。
「五百年以上生きたヴァンパイアの生き血は、強力な毒にも薬にもなり得る希少な材料なのですよ。それを求めに、ヒソカ殿は私の元を訪れたのです」
それを聞いて、意外とヒソカもハンターらしいことをしているのだな、とゴンは心の内で少し感心したが、長老の言葉をよくよく噛み砕いてみればそこには衝撃の事実が込められている。
「五百年!?」
目の前の老人は、人間で言えば六十から七十歳程度にしか見えない。ネテロ会長も到底百歳を超えているようには見えなかったが、こちらはなんと五百歳という話だ。
絵に書いたようなゴンの見事な驚きぶりに、長老は「ホッホッホ」と嬉しそうに笑った。
「我々は人ではありませんのでな。とはいえ、我々の中でもこんな長生きは珍しいのですが」
穏やかに目を細める長老を、ゴンはほえぇと呆けたように見つめている。
先ほど老人は、若い頃は人を喰っていたと話していたが、その『若い頃』というのが果たしてどれくらい昔のことなのかゴンには想像もつかない。
「ともあれ、私の元を訪れたヒソカ殿に、私はこう頼んだわけです。『レオポルドを捕えてくれたら、私の血を差し上げましょう』と」
その説明でゴンは得心がいく。いくら敵が強者とはいえ、ヒソカが単なる人助けの為に彼らの依頼を受けるというのがどうもゴンにはしっくりこなかったのだが、これで納得がいった。
ヒソカとしては、自身の目的も達成できる上に手強い化物と闘えるとあれば、一石二鳥の依頼だったのだろう。
「ヒソカ殿は、レオポルドを追うことを楽しんでおられたのかもしれませんな。見つけてもすぐには捕えず、じわじわと追い詰めているようでした。『窮鼠猫を噛む』と言いますが、まるで噛まれるのを待つかのように。しかし、そんなお戯れのおかげで流れる必要の無い血が流れてしまったことも事実です」
やや悔しそうに語る老人。ヒソカがすんなりと敵を仕留め長老に差し出していれば、少なくともヴラド村の子供達は命を落とさずに済んだのかもしれなかったのだ。
しかし、そのことについてゴンの中にヒソカを咎める気持が一切起こらないのは、ヒソカだから仕方ない、という知り合い故の諦念があるのかもしれない。
「ねぇおじいさん、オレもあのレオポルドって人と闘ったけど、すごく強かったよ。それに見た目もここの人たちとは全然違うみたいだったし。だからオレ、元々ここの村の人じゃないと思ったんだけど・・・」
自然と言葉遣いがくだけてしまったのは、ゴンが目の前の老人に親しみを抱いた証拠だ。いつの間にか正座していた足も崩して楽な姿勢で座っている。
老人はゴンの口調を特に気に留めることも無く、うんうん、と二回頷いてから静かに答えを出した。
「あの子は、私の血から精製された薬を口にしてしまったのですな」
「あ・・・」
強力な毒にも薬にもなる。その言葉を思い出し、ゴンは言葉を失う。
「退屈、過ぎたのでしょうなぁ。仲間や家族を大事にする平和な生活が、おそらくあの子には不満だったのでしょう。一度、人の血を吸おうとしたところを村の男たちに見つかり、捕えられ酷い制裁を受けたことがありました。それ以来、あの子は他者を出し抜くほどの強さが無ければこの村を出て行けないと考えるようになり、結果的に禁断の蜜に手を出したというわけです」
溜息混じり、哀しそうに語る老人。元々小柄な身体が、心なしか更に縮んでしまったように見える。
なんと言葉を掛けたら良いかわからず躊躇うゴンに、しかし老人は顔を上げ、気丈な眼でゴンを真っ直ぐに見つめた。
「ある意味、我々の所為であのような悪鬼を生み出してしまった。だからこそ、我々の手でレオポルドを捕えたかったのです」
と言っても、実際に捕えてくださったのはヒソカ殿ですが、と苦笑混じりに長老は付け加えた。
その言葉に、ゴンも曖昧に微笑む。
そこで、長老が湯飲みに手をつけたので、ゴンもそれに倣ってお茶を一口含む。先ほどより幾分ぬるくなっているが、丁度飲みやすい温度だった。
ホッと一息ついた様子の長老が、なんとも言えない薄笑みを浮かべてポツリと呟いた。
「あのお方・・・ヒソカ殿は、マージナルな存在ですな」
「まーじなる?」
五百年も生きてきた割に、ハイカラに横文字など使ってみせた長老に、ゴンはキョトンとして首を傾げる。
「境界的、と言いましょうか・・・あの方は、人間とも、我々のような存在とも違う、その境目に存在するお方のように、私には感じられるのですな」
正確なニュアンスを伝えようと言葉を探すような口調で語る長老に、ゴンは大きくゆっくりと頷いた。ヒソカに対するその表現は、確かに的確だとゴンも思う。
ゴンが初めてヒソカと相対した時、ゴンにとってヒソカはまるで未知の存在で、得体の知れない生物のように感じられた。しかし、確かに化物や魔獣というのとも違う。
人でもなければ化物でもない、どんな種族にも属さない境界的な存在と言えば確かにしっくりくる。
長老のヒソカに対する表現に妙に納得して、神妙な顔つきでうんうん頷いているゴンを長老は再び穏やかな眼で見つめながら告げた。
「その点を言えば、ゴン殿、貴方はボーダレス、と言うべきでしょうなぁ」
「ぼーだれす?」
再び用いられた横文字にゴンは再度首を横に傾ける。この長老は、下手をしたらゴンよりも若々しい言葉を使えるのかもしれない。
ホッホッホ、と楽しそうに笑いながら長老は言葉を添える。
「オルトやシエナから伺っております。チナも貴方によく懐いていると。実際にお会いしてみて、よくわかりました。おそらく貴方にとっては人であるとか、吸血鬼であるとか、そういったことは一切関係ないのでしょう? 貴方は私に対しても、一介の老人としてごく自然に接してくださった。こんな風に穏やかな気持で、貴方のようなお若い方と、しかも人間の方とお話しできたのは、これだけ長く生きていても初めての体験ですぞ」
嬉しそうに目を細めてそう語る長老に、ゴンは「はぁ、アハハ・・・」と困ったような笑みを浮かべて、照れ隠しに片手で後頭部をかいた。
ゴン自身にはいまいちピンと来ないのだが、五百年以上生きてきた者に「生まれて初めて」と言われてしまうほど自分は変わり者なのかと思うと、無性に恥ずかしくなってしまったのだ。
「それ故にこれから先、ご苦労なさることもあるやもしれませぬが、私のような年寄りからしてみたら、そのように易々と垣根を越えられる勇気や受容力の高さを、これからも持ち続けて頂けたら嬉しいものですなぁ」
しみじみと語りかける老人に、今度はゴンも真っ直ぐに微笑んで「ありがとう」と告げた。
老人の言っていることは正直あまりよくわからなかったが、多分褒められたのだということはゴンにも理解できたからだ。
ボーダレス、という言葉をゴンは忘れないようにと、頭の片隅にそっと記しておいた。
ゴンが長老の家から出てみると、ヒソカは傍らの芝生に座り込んでトランプタワーを作っていた。こんな不安定な場所でよくそんなに器用な真似が出来るなぁと感心しながら、ゴンは「ヒソカ、お待たせ」と声を掛ける。
するとヒソカは、わざとらしく拗ねたような顔をしてゴンを見上げた。
「遅いじゃないか、まったく・・・♣ 待ちくたびれたよ♠」
子供のように唇を尖らせるヒソカに、ゴンは苦笑して「ゴメンゴメン」と両手を合わせて謝ったが、そもそもゴンがヒソカに待っていてくれと頼んだわけでもない。むしろヒソカはどうして自分を待っていたのかな、とゴンは胸の内でこっそりと疑問に思った。
「まったく、年寄りというのは話が長くて困るよね♠ ボクはもう、あんな年寄りの相手はこりごりだよ♦」
肩をすくめて溜息を吐くヒソカ。やれやれ、と言いながら立ち上がる。
その様子に、ゴンは「アハハ」と苦笑していたのだが、実を言えば話を長引かせたのはゴンの方なのだ。
長老が五百年も生きてきたということもあり、今までどんなことがあったのか、驚くような話は無いかと長老にせがんで、冒険譚を沢山聞かせてもらっていたのだ。キラキラと目を輝かせて長老の話に聞き入っていたゴンだったが、キリの良い所で長老が「そろそろ行かねば、ヒソカ殿を待たせているのではないのかね?」と促されて初めてゴンはヒソカのことをハッと思い出したのだった。
長老の話の長さについて恨めしげにブツブツ言っているヒソカには、そんな裏事情など伝える必要は無い。
世の中には言わなくても良いことがあるという真理は、流石にゴンもよく理解していた。
「それで、長老は何か言っていたかい?」
再び村の通りを歩みながら、ヒソカがゴンに視線を向けて尋ねる。ゴンは、ヒソカを見上げて「あっ」と声を上げた。
「あのね、おじいさん、ヒソカのことを『まーべらす』な存在だって言ってたよ!」
「・・・マーベラス?」
ヒソカは形の整った眉をひそめて訝しげに鸚鵡返しする。「うん、まぁ、よく言われるけど♦」と釈然としない表情のままヒソカが付け加えると、ゴンが首を傾げて「あれ? 違ったかな? まーぶるず?」と記憶を掘り起こすように頭を抱える。
「長老は、どんな意味で言っていたんだい?」
苦笑を浮かべてヒソカが穏やかに尋ねれば、ゴンが「えっとね、『境界的』って言ってた!」と元気に返事をする。するとヒソカは、肩をすくめて「あぁ♦」と嘆息した。
「マージナル、かな♠」
苦笑混じりにヒソカが言い当てると、ゴンは「そう、それ!」とヒソカに向かって指を差して、正解! とジェスチャーする。
五百歳の老人以上に横文字に弱い少年に、ヒソカは苦笑を禁じえない。
オルト医師の家への帰路の途中、ゴンはふとヒソカを見上げて「『まーべらす』ってどういう意味?」と尋ねると、ヒソカは上機嫌に「『素晴らしい』って意味♪」と答えた。
それを聞いて、ヒソカがよく言われるなんてそんなこと無いんじゃないのかな、とゴンは顔をしかめて首を傾げながら釈然としない気持で歩を進めていたのだった。