翌日。
 支度を整えてオルト宅の玄関に立つゴン。ヒソカは既に外でゴンを待っている。
 ゴンの足元では、チナがベソをかきながらゴンを見上げており、そんな幼子にシエナが「チナ、いい加減にしなさい!」と困ったように叱りつける。
 それでもチナは涙目でゴンを見上げて訴える。


「行っちゃヤダァ〜」
 ゴンを見上げる大きな瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちる。それを見るとゴンの胸は苦しくなってしまうが、シエナが「いい加減にしなさい! ゴン君も困っているでしょ!」とゴンの気持を代弁してくれる。
 しかし、勿論そんな言葉で簡単に泣き止むほど、子供というのは大人の事情を汲んでくれない。


 ゴンにとって此処はとても居心地の良い場所ではあったが、いつまでもヴァンパイアの村に居る訳にもいかない。
 ヴラド村の人たちにも脅威が去ったことを伝える必要があるし、ゴンの短パンのポケットにはハツの家の合鍵が入ったままだ。
 二人の孫たちとも「すぐに帰ってくるよ」と約束したのに、それを果たせていない。
 一度、ヴラド村に戻る必要があるのは確認するまでも無い。


 昨日、ヒソカと共にオルト医師の家に戻ったゴンがひとしきりチナと一緒に遊んでやると、チナはますますゴンのことが気に入ったようで「チナ、おにーちゃのお嫁さんになる!」と言い出した。
 それに対して「ホント? 嬉しいな、ありがと」とニコニコ返したゴンだったが、なぜかそれを聞きつけたヒソカが遠くから「ゴンはボクのお嫁さんになるんだからダメだよ♣」とチナに難癖をつけてきた。
 ファッ!? とヒソカを振り返ったゴンと、その言葉に哀しそうに半べそになるチナと、なぜか不機嫌そうなヒソカと。
 一番大人であるはずの男が、最も大人気ないとは情けない話である。


 ともあれ、ゴンのお嫁さん候補に名乗りを上げたチナである。別れが辛いのは当然だ。エグエグと泣きながら、チナは「おにーちゃ、また遊びに来てね?」と小指を差し出す。
 ゴンは真っ直ぐに見上げてくる潤んだ瞳にツキンと胸を痛めたが、「うん、また遊ぼうね」と笑顔を返して小指を絡めた。
 それが、恐らく叶わぬ約束であると知りながら。


 昨日の長老との話の終わりに、ゴンはチラリと振り返って長老に尋ねたのだ。
「おじいさん、また話を聞きに来ても良い?」
 長老は、ホッホッホ、と嬉しそうに笑ってくれたが「残念ながら、それはなさらぬ方がよろしいでしょうなぁ」とゴンに返した。
 ゴンは驚いた顔で「えっ?」と尋ねる。


「確かに貴方は我々に対してもまったく平等に、何の偏見もなく接してくださる。私自身も貴方のことを気に入っておりますが、それでも貴方は人間です。そして、この村の民は人の血を吸わぬとはいえ、それでも我々は吸血鬼なのです。本来、交わってはいけないものです。人々の誤解や偏見や恐怖は、とても根深く、我々にとっても脅威です。それは、私の五百年の中で最も痛感していることでもあります。それに、我々一族のレオポルドが人の子の命を奪ってしまったことも事実。ですから貴方は、お怪我の調子が良くなったなら、この村を出て二度と此処へは戻らぬ方がよろしいかと」


 そう言われてしまっては、ゴンも駄々をこねるわけにはいかない。
 ゴンが彼らを怖がらないからといって、他の人たちも同じようにはいかないのだ。
 それは、ゴンも理解できるようになりつつある。


 寂しそうな顔で見つめるゴンに、長老は温かい笑顔で伝えた。
「ありがとう、ゴン殿。お会いできて、お話しできて、心から嬉しかったですぞ」
 それは、本心なのだろう。そして、そこにはある種の決意も感じられ、このような別れを長老は幾度と無く経験してきたのだろうということも、ゴンにはわかった。
「うん、オレも。会えて嬉しかった。おじいさん、ありがとう」
 老人を困らせることの無いよう、ゴンも笑顔で、強い眼差しを湛えてそう返す。
 多大な年の差を越えた絆のようなものが、交わる視線の中に確かに存在していたことをゴンはしっかりと感じ取っていた。


 もう此処には戻ることは無い。そう長老と話をした後の、チナとの約束だ。チクリと胸を刺す罪悪感を表に出さぬよう、ゴンは眩しそうな笑顔を浮かべていた。
 今もまだぐずっているチナをシエナが抱っこしてやり、ゴンを見送る為に二人で外へ出る。ゴンは何度も振り返りながら二人に笑顔で手を振っていた。


 村の出口付近でヒソカがゴンを待っていた。ヴラド村へ帰るつもりのゴンだが、現在地がどの辺りなのかまったくわからない。しかし、長老をはじめとするヴァンパイアたちは外部の人間に村の詳細な場所に関する情報が流出してしまうことを恐れている為、ヒソカがゴンを途中まで送ってやることになっていた。
 普段通りのピエロのような服装とメイクを施したヒソカが、腕組みをして「遅かったね♣」とまたもや機嫌悪そうに呟く。いちいち拗ねるヒソカがなんだか面白くて、ゴンはクスクス笑って「ゴメンね」と返した。


 そういえば、自分が見知らぬ他者と仲良くしているとキルアもよく拗ねていたなぁ、ということをゴンはふと思い出して、心がふわっと温かくなる。
 キルアは元気だろうか。思わず空を見上げたが、あいにく今日は曇天の空模様。青空は見えず、それだけでなんとなくゴンはキルアの存在を少しだけ遠く感じてしまう。


 「行くよ♦」と短くゴンに声を掛けるヒソカに「うん」と短く返事をして、ゴンは吸血鬼の村を後にしたのだった。
















 三十分ほど山道を下ると舗装された道に出た。ゴンがヴラド村へ行く際に乗ったバスの通り道のようだ。
「ありがとう! ここまで来たらもうわかるよ、大丈夫!」
 ゴンがヒソカに礼を告げると、ヒソカはニヤリと笑んで「そうかい?」と足を止める。
「・・・ヒソカは、あの村に戻るの?」
 ふと気になって、ゴンがヒソカを見上げて尋ねれば「そうだね♠」とつまらなそうに返事をする。


「あのジイさん、キミを送り届けてからでないとボクの目的の物を渡さないと言ってきた♣ 殺して奪い取りたいくらいだけど、残念ながら生き血でないと意味が無いらしい♠ 仕方ないから目的だけ果たしたら、あんな辛気臭い村さっさと後にするつもりだよ♦」
 ヒソカの返答に、ゴンは「そっか」と目を伏せて相槌を打つ。ヒソカはあの村に受け容れられているわけではないにせよ、少なくとも拒まれていないのは、長老の依頼を果たした英雄だからか、それとも長老曰く『マージナル』な存在だからか。
 どちらにせよ、ゴンはヒソカに対し、なんとも言い難い憧憬のような気持を僅かに抱く。


「じゃあ、オレ行くね!」
 そんな気持を悟られぬよう、笑顔でヒソカを振り返るゴン。バイバイ、と手を振って別れを告げるとヒソカも薄笑みを浮かべてヒラヒラと手を振る。
「うん、またね、ゴン♥」
 笑顔で挨拶をし、ゴンを見送るヒソカ。
 その後姿が見えなくなるまで、その場でヒソカはゴンの背中を見送り続けた。


 暫くしてゴンの姿が視界から消えると、ヒソカはその場で一枚のトランプ――――スペードのエースを取り出し、チュッと音を立てて口づける。
「またね、ゴン♥」
 再びそう呟いて、ニヤリと浮かべた微笑には、悪戯心と悪だくみが見え隠れしていた。















 村まではそう遠くなさそうだったが、ゴンは急ぐ必要もないと思い徒歩にて道路を進んでいった。目的地に辿り着いたのは、先日初めて訪れた時と同じく、夕方に近い時刻になっていた。広場で遊んでいた村の子供たちが名残惜しそうに別れの挨拶を告げ合っている。


 ハツに鍵を返すのが先か、ラムジに敵は既に捕らわれたことを知らせるのが先か。
 一瞬迷った結果、ゴンはハツの家に先に向かうことにした。この村を出てから丸二日も行方不明のままだったのだ。きっと心配させてしまっているに違いないと思い、ゴンは村の中の道を小走りに進む。


 しかし、ゴンはすぐに違和感に気づく。
 村人のゴンを見る目が不自然なのだ。いくら余所者とはいえ、あからさまにジロジロと見られていては流石に鈍いゴンでも気になってしまう。初めて訪れた時はハツと一緒だったとはいえ、こんな雰囲気は皆無だった。今は、ゴンが足早に過ぎる姿を見ては驚いた表情を浮かべる者や、コソコソと耳打ちをし合う者ばかりだ。


(・・・どうしたんだろう?)
 不思議に思ってゴンは立ち止まってみる。キョロキョロと辺りを見回すと、中年の男性と目が合った。
 同時に、男が「ヒイッ!」と怯えた声を発して青ざめる。
 そして男は、周囲に居た村人に大声で呼び掛けた。


「早くハンター様にお伝えしろ! 吸血鬼に噛まれた子供が戻ってきたぞ! お、俺たちも噛まれるぞ! 殺される!!」
 男の鬼気迫る表情と言葉に周囲一帯はざわめき、パニックが起こる。女子供がキャー! と悲鳴を上げて近くの建物の中へ避難するように走って行く。
 その様子を、ゴンはただただ唖然としてポカンと眺めていることしか出来なかった。
 そして、遅まきながらようやくゴンは理解する。村人は、ゴンを吸血鬼の仲間だと誤解して恐れているのだ。


 気づけば、ゴンは周囲を村の男たちに取り囲まれていた。男たちはそれぞれ、猟銃や農具などで武装し、それらをゴンに突きつけて一定の距離を保っている。
 彼らの眼は、恐怖と敵意に満ちていた。
 流石に慌てたゴンが、両手を上げて叫ぶ。


「ち、違うよ、誤解だよ! オレはただ、ハツさんに借りた鍵を返しに来ただけだ! オレは吸血鬼なんかじゃない!」
 敵意の無いことを示そうと、必死に呼び掛けるゴン。その様子に、一部の村人たちは不安そうに顔を見合わせている。
 これではまるで、ハツの家にラムジが乗り込んできた時と同じ状況だ。あの時は、半分ラムジの悪ふざけのようなものだったが、今は此処に居る全員がゴンを疑っている。眼を見れば善いか悪いかの判断が出来ると言い切ってくれたハツも今この場には居ない。ゴンは身の潔白を証明する手立てを持たない。


「嘘を吐け!」
 人垣の向こうから、一際鋭い声が上がる。
 見れば黒い道着のようなものを着た坊主頭の男で、『凝』を使うまでもなくゴンにはその男が念能力者だということがすぐにわかった。おそらくラムジの仲間なのだろう。
「嘘なんかじゃない! オレは人間だ! 噛まれても吸血鬼にならないって言われたもん!」
 信じてもらいたくて咄嗟にゴンの口から出た言葉は、しかしこの場では逆効果だった。「噛まれた」ことを自ら認めた形になり、「やっぱり噛まれたんだ!」と周囲は更にざわめく。


「ならば小僧、この二日間、お前は今まで何処に居た? 吸血鬼にならないなど、一体誰に言われたんだ? お前は既に奴らの仲間だからこそ、俺たちを騙すつもりでこうしてこの村へ戻って来たのだろう!?」
 黒道着の男が、数珠のようなものを手にしてゴンに詰め寄る。ゴンは必死に「違う!」と叫ぶが、最早この場の誰もゴンの言葉など信じようとはしない。


 いっそこの場で彼らに捕えられ、取調べでも受けて身の潔白を証明した方が良いのかもしれない。ゴンは一瞬そんな風にも思ったが、すぐにそれを払拭せざるを得なかった。
 人垣の中から、喉奥から絞り出したような、悲鳴にも似た苦しげな声が上がったからだ。


「殺せ!!」
 大きな鉈を両手で持ち目を血走らせた男が、一歩前に出て悲痛な叫びを上げた。
「バラバラの、グチャグチャにして殺してやれ! 俺の子供と同じように!!」
 男は、大声を上げながらゴンに向かって走り出し、鉈を振り下ろした。素人の攻撃などゴンは簡単にかわすことが出来るが、その悲痛な様子に胸はズキンと痛む。
 勢い余って地面に転がった男はうずくまって泣き叫ぶ。


「どうしてっ、俺の娘が殺されなければいけなかったんだ!? どうか、アイツらも、同じ目に遭わせてやってくれ・・・全部、皆殺しにしてやってくれよおぉぉ!!」
 うわああぁ! と男は泣き叫び、拳を地面に叩きつける。
 その姿に、ゴンは下唇を噛み締めていたたまれない気持を堪える。


 その時、ゴンはハッとして辺りを見回した。
「そうだ、ラムジさん! ラムジさんはどこ!?」
 ゴンがラムジの名を出すと周囲に緊張が走ったが、ゴンは自分の身の潔白を信じてもらえるよう、必死に訴える。
「ラムジさんとならオレは一度会っているし、信じてくれるはずだよ! オレは、吸血鬼なんかじゃない! 人間だって!」
 ゴンは必死に呼び掛け、黒道着の男に目で訴えるが、ラムジの仲間と思しき男は敵意を隠すことなく、苦々しい表情で「無駄だ」と言い切った。


「その、当のラムジが、お前の存在に気をつけろと我々に警鐘を鳴らしたのだ」
「え・・・」
 無情な言葉に、ゴンは表情を失くす。
 道着の男は更に一歩前に出ながら、数珠を突きつけるようにゴンに告げる。


「ラムジはお前が吸血鬼に噛まれ、その後、他の仲間によって連れ去られるのを見たと言っていた! そして、お前の血の跡を辿り吸血鬼の集落を発見したラムジは、そこでお前が化物どもと仲良く戯れている様子も見ているんだ! お前がどんなにとぼけて俺たちを騙そうとしたって無駄なんだぞ!」
 男の言い様に、ゴンは鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。


 確かにそれは事実かもしれないが、真実ではない。ゴンは彼らの仲間になった訳ではないし、そもそも彼らは人を襲わない。
 しかし何から説明したら良いのかわからず、ゴンは口をパクパクと動かすことしか出来ない。それに、ひょっとしたら男の言うように、最早何を言っても無駄なのかもしれない。


「ラムジは、お前があのまま奴らの仲間として生きていくならそれも仕方ないと諦めていたが、此処へ戻ってくるようなら遠慮なくハントしろと、俺たちにそう言い置いて奴らの村を狩りに行っている・・・お前も、もう諦めろ」
 立ち尽くすゴンに、引導を渡すように男が低く告げる。しかし、ゴンはその言葉の内容に戦慄した。


 ラムジがあの村を襲撃しようとしている。長老や、オルトやシエナ、チナが居る、あの温かい村を。しかも、ゴンの血の跡を辿ってラムジは村を発見したと言っていた。それは即ち、村の在り処をラムジに教えたのはゴンだと言っても過言ではないのだ。
 止めさせなければ。そう思い、この場を逃れようとオーラを練って、ゴンは脚に力を込める。
 しかし。


「させるか!」
 ゴンの動きを察知して、道着の男が数珠を握り締め、グッと力を入れる。すると、瞬間的に身体がグッと拘束されたような緊縛感を覚えてゴンは硬直した。どうやら、男の能力のようだ。
「さあ、今のうちに奴を殺れ!」
 頭に血管を浮かべ、男は苦しそうに叫ぶ。様子から察するに、相手の動きを一時的に止められるようだが、そう長くはもたなそうだ。しかし、彼らからしてみたらそれで十分なのだ。


 真っ先に、子供を殺された父親が立ち上がり、鉈を再び握り直してゴンをギリリと睨み付けた。それに刺激されるように、他の男たちも手にした武器を握り締めて、ゴンとの距離を縮める。


 ギラギラとゴンを睨みつける幾対もの眼は、憎しみと敵意に燃えていた。それは、子供を殺された憎しみであり、同胞を殺された恨みだ。
 それに加えて、得体の知れない化物への恐怖が、憎しみを増大させている。


 人と吸血鬼は、交わってはいけないもの。ゴンはふと、長老の言葉を思い出した。
 村人の憎悪に曝されることに言いようのない哀しみと苦しさを覚えて、ゴンは唇を噛み締める。


 怒号が轟いた。
 男たちが一斉に声を上げながらゴンに斬り掛かる。


 『堅』で男たちの攻撃を防ぐゴン。






 その瞬間――――
 ヒラリと、閃光が走った。
 音もなく、一筋、まるで光が舞うように。








 そして、ゴンの眼前は、真っ赤に染まった。







 
「ぎぃやあああぁぁぁぁ!!」
 男たちの悲鳴が迸る。
 ゴンの目の前には、血塗れの指や手や腕がゴロゴロと転がっていた。中には数珠を握り締めた手もあり、気づけばゴンの拘束は解けている。しかし、目の前の光景に、ゴンはすぐには動けずにいた。
 男たちは皆、血塗れで地面にうずくまり、激痛に悶えている。


「困るなぁ、キミたち♠」
 嫌と言うほど聞き覚えのある声が背後からして、ゴンは拳を握り締める。
 カツンカツン、と足音を立てながらヒソカはゴンに歩み寄り、斜め後ろから小さな肩を抱いて身を屈め、頬と頬をくっつけるようにゴンに顔を近づけながら、うずくまる男たちに告げた。


「コレは、ボクの獲物なんだ♥ キミたちごときが手を出しても良い相手じゃないんだよ♦」
 地べたに這いつくばる男たちを蔑むように見下し、ヒソカはニィと笑う。その様子は、まるでゴンが『ボクの獲物』であることを自慢しているかのようだ。
 しかし、男たちは激痛に悶えるばかりでそれどころでは無く、ゴンもまた怒りに拳を震わせてヒソカの手を振り払った。


「ヒソカ! なんてこと・・・なんてことを、してくれたんだ!! この人たちは、何も・・・!」
「何もしていないから、キミは彼らに殺されてあげるのかい? 勝手に死ぬのは許さない♦ キミには、これから先もボクを愉しませる義務がある♠」
「死ぬつもりなんかない! こんなの、全部防いですぐに逃げるつもりだった! この人たちをこんな目に遭わせなくったって、オレは・・・!」
「勘違いするなよ、ゴン♠ ボクはキミを助けた訳じゃない♣ ボクの獲物に手を出そうとした不届き者に、お仕置きをしただけさ♦」


 薄笑みを浮かべた口元と裏腹に、ゴンを見下ろす眼は酷く冷酷だ。ヒソカらしい物言いに、ゴンは返す言葉無くグッと詰まってしまう。
 そこで、遠巻きに村人たちが集まり始めた。女性の悲鳴がキャー! と甲高く響く。


「ゴン、行くよ♦」
 ヒソカは踵を返す。
 それに従うのも非常に癪だったが、このままゴンが此処に居ても混乱は大きくなるばかりだ。それに吸血鬼の村の様子も気になる。
 ゴンはもう一度、血の海の中で苦悶する男たちを見遣り、唇を噛み締め目礼をしてからその場を立ち去った。
















 ヒソカが向かっているのは、紛れも無くヴァンパイアたちの村だった。詳細な場所を知らなくとも一度帰り道を辿っている為、ゴンは方角的にすぐにわかる。
 ゴンはやり場の無い怒りを堪えて山道を走り抜けながら、ヒソカに尋ねた。


「ヒソカ! お前の目的は一体何なんだ!?」
 吸血鬼の村でヒソカと会話をしていた時のような穏やかさは、今のゴンには無い。
「お前の目的は長老の血で、それはもう手に入れたんだろ!? だったら、どうしてまたあの村に戻ろうとするんだ!」
 荒い口調で詰問するゴンに対し、しかしヒソカはいつもと変わらぬ揶揄うような口調でのんびりと答えた。
「目的? ボクの目的は、いつだって強い敵と闘うことさ♥ 長老の血を手に入れることは、ただの仕事であってボクの目的じゃない♦」
 その態度に、ゴンは答えをはぐらかされたような気持になる。『強い敵』など、あの村には――――


「・・・あの、レオポルドって奴と闘うの?」
「正解♪」
 ヒソカは愉しそうに答える。
「結局あの時は、ヤツがキミの血を吸っている間に不意打ちを仕掛けたようなものだったから、どうにも消化不良でね♠ 再試合に臨んで頂こうかと♦」
 ウキウキと答えるヒソカに、ゴンは言葉を挟む。
「でも、レオポルドは地下牢に繋がれているって・・・!」
 言い掛けてから、ゴンは周囲の空気の違和感に気づく。微かに、きな臭い。心なしか空気が熱く、何処か遠くで火事か何かが起こっているのかもしれない。
 ゴンの胸の内がザワリと騒ぐ。


「あぁそういえば、三流のハンターらしい連中があの村を襲いに来ていたよ♠ その混乱に乗じて、あの化物が逃げ出してくれれば上々かな♥」
 フフン、と鼻唄混じりにヒソカは機嫌良く告げる。
 しかし、その言葉にゴンは激昂する。


「なっ・・・!? ハンターが村を襲いに来ていることをわかっていて、それを放ってヒソカはヴラド村へ来たのか!? そんなの、なんで・・・!」
「ゴン」


 珍しく、真面目な口調でゴンの名を呼び、ヒソカは突然足を止めた。即座に反応できずゴンは行き過ぎてしまい、慌てて足を止めてヒソカを振り返る。
 ヒソカは、嘲るような笑みを浮かべゴンを見下ろしていた。


「ボクが、彼らを助けるとでも?」


 ゾクリとするほど、冷酷に、艶やかに微笑ってみせるヒソカ。
 その冷笑を見て、ああ、とゴンは実感する。


 これが『ヒソカ』なのだと。


 闘うこと以外に興味が無く、人でもなければ化物でもない。
 ヒソカは、ヒソカなのだ。


 そして哀しい哉、ゴンの意思とは関係なく、その冷酷な微笑にゴンの胸の奥底がドクンと騒ぎ出す。
 それは、闘う者としての本能だ。
 どんなに残酷で冷酷であろうとも、強く美しいヒソカという存在に、ゴンは胸騒ぎを覚えずにはいられない。それを止める術を持たないことが、今のゴンにはとても悔しい。
 拳を握り締め、しばらくゴンは無言のままヒソカを強い眼差しで見つめていた。


 そのまま何も言わずにくるりと踵を返して、ゴンはヴァンパイアの村への道を走り出す。
 ヒソカは何を考えているのかよくわからぬ様子で遠ざかって行くゴンの後姿を眺めていたが、やがてゴンに続いて再び山道を走り出したのだった。















 そこはもう、村ではなかった。
 轟々と炎が上がり、まるで戦場のようだ。建物が次々と倒れる音、逃げ遅れた山羊たちの鳴き声が、痛々しく響き渡っている。
 時刻は既に夜を迎えており、月も星も無い夜空が鮮やかな橙色に染められている。
 襲い掛かる熱風に顔をしかめて、ゴンは村を為していた場所に足を踏み入れる。
 木造の家々は簡単に炎に飲まれ、一部は既に倒壊を始め木材の山として燃え上がっていた。
 何もかもが燃えている。その痛ましい光景にゴンの胸は張り裂けそうになるが、ショックを受けている場合ではない。
 ゴンは熱や灰から顔を守るように腕で口元を隠しながら、大慌てでオルトたちの家へ向かった。


 向かう途中、村人には一人も遭遇できなかった。
 無事に全員逃げてくれていれば良いのだが、とゴンが願っている矢先に道端に倒れている人影を見つけてしまう。近づいてみると倒れているのは老婆のようでゴンは慌てて駆け寄るが、抱き起こすまでも無く絶命しているのは見て明らかだった。
 地面にうつ伏せに倒れた老婆の胸には直径十cmほどもある大きな穴があいており、流れ出た血が大地をどす黒く染めていた。
 ゴンは奥歯を噛み締め、拳をギリッと強く握り締める。
(こんなの、酷い・・・!)


 うつ伏せに倒れているということは、後ろから何かで射抜かれたということだ。老婆の足元に、つっかけていたと思しきサンダルが片方脱げて落ちている。逃げ惑う無力な老婆の背中を打ち抜いたらしい狩人の行為に、ゴンはどうしようもない哀しみと悔しさが込み上げる。
 悔しさで涙が滲み出し、ギュッと強く目を閉じそれをごまかしてから、ゴンは再び走り出した。オルトもシエナもチナも長老も、皆無事でいて欲しいと心の底から願いながら。


 つい半日ほど前までゴンが滞在していた家は、見るも憐れな無残な姿に成り果てていた。柱も天井も焼け落ちて崩れ、万一、中に人が居てもこれでは絶対に助からない。
「オルトさん、シエナさん、チナ!!」
 ゴンは大声で一家の名を呼ぶ。もう一度名を呼ぼうと息を吸えば、熱気と灰で喉をやられゲホゲホと咳き込んでしまう。それでも掠れた声で、ゴンは彼らの名を呼び続けた。


 家の周りをぐるりと見て回る。シエナが作ったパッチワークの壁掛けやチナの小さな子供服や玩具、温かな家を象っていたすべてが、炎に包まれ焼け焦げ崩れ落ちていく。


 『愛』を知り、人の命を奪うことを否として、慎ましく生きてきたはずの吸血鬼たち。
 彼らが築き上げてきたささやかな幸せが、いとも簡単に崩れ落ちていく様を、ゴンはただ見ていることしかできない。


 もう一度、ゴンは一家の名を呼ぶ。当然、返事は無い。そして、一際大きな音を立てて屋根が崩れ落ち、家は原型を留めぬほどに壊れていく。これでは、中を探すことも不可能だ。どうか無事で逃げ延びていて欲しい、それだけを切に祈りながらゴンは後ずさり、長老の家の方へ足を向ける。


 向かう途中、道端には焼け焦げた家畜の屍骸に混じり、村人の遺体がいくつか倒れていた。そのすべてが炎や煙に巻かれたのではなく、人為的に、悪意を持って殺されたものだった。
 胸にあいた大きな穴。血塗れの遺体。
 罪も無い人々のいわれの無い『死』に次々と直面し、ゴンはその場にうずくまって泣き叫んで喚き散らしたい衝動に駆られる。


 血の匂いと焦げ臭い灰の匂い。
 轟々と音を立てて燃え盛る村。
 赤く染まる闇夜。
 此処はまるで地獄のようだと、ゴンは絶望にも似た気持に陥る。


 その時、背後に気配を感じてゴンは咄嗟に右に跳んだ。
 ゴンが元居た場所を光の矢のようなものが横切り、地面を抉る。
 振り返れば、青白い顔をしたラムジが弓を構えるような体勢でゴンを睨みつけていた。ラムジは、ゴンを見てチッと舌打ちする。
「外したか・・・」
 そう呟くラムジの顔には鬼気迫るものがあり、ヴラド村でゴンと相対した時の人の好さそうな印象は欠片も残されていなかった。
 ゴンに対し、敵意剥き出しで再び念で作った弓矢を構える。


「止めてよラムジさん! お願いだから、もう止めてくれ!!」
 目の前の惨状と敵意を向けられることの哀しさに、ゴンは泣きそうになりながら必死にラムジに哀願する。
 しかしラムジは聞く耳を持たず「命乞いなど無駄だ、化物め!」と吐き捨ててゴンに向かって光の矢を放った。


 瞬間、ゴンは真っ直ぐに念矢を見つめたまま両手を『硬』で覆い、飛んでくる矢を真正面で受け止めた。そしてそれをへし折ってみせる。
 それを見て、驚きたじろぐラムジ。「ば、化物め・・・」と苦々しく呟く。
 しかしゴンはラムジの反応など意に介することなく、訴えを続ける。


「お願いだラムジさん、もうこんなことは止めてよ! オレは吸血鬼なんかじゃないし、この村の人たちは人間の血を吸わない! 何の罪も無い人を、こんな風に襲うなんてどうかしてる! こんなのはハントじゃない、ただの虐殺だ!」
 必死に叫ぶゴンに、ラムジは血走った眼で睨みつける。
「うるさい! 化物に成り果てたお前に、プロのハントを語る資格など無い! 貴様らは人を喰らう化物、根絶やしにするのが人々にとっての安寧なんだ!」
 冷静さを欠き、血走ったラムジの眼に宿るのは深い深い憎しみだ。憎悪の渦が、目の前に居るゴンに対して向けられている。


 この眼を、ゴンは知っている。
 つい先ほども、ヴラド村で目の当たりにしたばかりだ。


 憎悪で血走らせ、見開いたラムジの大きな双眸から、不意に涙がボロボロと零れ出した。
「俺の嫁さんと子供は、ヴァンパイアに殺された・・・子供は、生きてりゃお前と同い年だ・・・」
 震える声で、ラムジは呟く。
 それを聞いて、ゴンはラムジの真剣な言葉を思い出す。
 『親より先に子が死ぬのは、最大の親不孝だ』という言葉を。


「二人が無惨に殺されたあの日から、俺の生きる目的は、ヤツらを根絶やしにすることに変わった・・・! ヤツらを見つけ、殺すこと。それが、それだけが、俺の生きる目的だ!!」
 ラムジの血走る眼に宿る憎悪。復讐心に燃える瞳。
 ゴンは、それを知っている。
 カイトを奪われた自分も、きっと同じ眼をしていたのだ。


 だからこそ、今のゴンには理解る。
 ラムジの心を占める『復讐心』が、どれほど大事なものなのかを。







 キルアは、ゴンに対して『いっしょに倒そうって、言って欲しかったよ』と寂しそうに告げた。
 けれど、違うのだ。
 ゴンが『一人でやる』と言ったのは、『復讐心』だけは分けられなかったからだ。
 大切な人を奪われた哀しみはあまりにも大きくて、哀しみを憎しみに変えて『復讐』という目的に縋らなければ、泣き崩れて、挫けて、立ち上がることすらできなかったかもしれない。
 大事な人を非道な暴力で突然奪われることは、それほどに人の心を大きく蝕み、生きる力を奪う。だからこそ『復讐』という目的は、例え歪んでいたとしても、生きる支えになるということ。
 カイトを奪われて初めて、ゴンはそのことを知った。




 それでも。




「だからって、罪も無い人たちを殺して良い理由にはならない! お前のしていることは、ただの虐殺だ!」
 胸の奥の痛みを堪えて、ゴンは必死で叫ぶ。
 ラムジの『復讐心』を理解することはできても、一族全てを殺そうとする行為は決してゴンには受け容れられない。


「子供や奥さんを殺された痛みを知っているなら、どうして同じことを彼らにできるんだ!? 彼らにも家族があって、子供が居るんだ! それなのに、どうして・・・!」
 ゴンの必死の訴えをラムジは「うるさい!!」と一蹴する。
「俺が味わった苦しみを、ヤツらも味わえば良いんだ!」
 憎しみで怒り叫び、哀しみに嘆きながら、ラムジは哄笑を上げる。狂気染みた様子に、ゴンは最早かけるべき言葉を見つけられない。


 轟々と風が炎を巻き上げる音に混じり、ラムジの高らかな笑い声が響き渡る。
 しかし、それが不意に途絶えた。


「あ・・・?」
 ラムジは、笑っていた形のまま、口をポカンとあけて自分の胸元を見た。そこには、大きな鉤爪をもつ節くれ立った大きな手が、生えていた。
 グジュ、と厭な音を立ててラムジの胸から腕が引き抜かれる。ドサリと前のめりに倒れたラムジの胸には、皮肉にも自身の能力で他の村人たちに刻んだのと同じような穴が、ポッカリとあいていた。


 ラムジを背後から襲撃したレオポルドは、爪と指に絡んだラムジの血肉を口元に運んで、すぐにペッと吐き出した。
「不味イ・・・でかイと大味ナンだ。やっパり喰ウなら子供に限ルナ」
 耳まで裂けた口をニヤリと吊り上げて、化物はゴンをジッと見つめた。ヒソカの狙い通り、火事の混乱に乗じて地下牢から逃げ出してきたようだ。


 その一部始終を静かに見据えていたゴンは、感情を伺わせぬ深い色の瞳で、レオポルドを真っ直ぐに捉えた。
 その眼に、レオポルドは瞬時にゾッとする。


(ナンだ、コレは・・・?)
 一度は油断を誘い、血を啜った相手だ。技も既に見知っている。
 それなのに。


「さいしょは、グー」


 ゴンは、静かに呟いた。
 ヴォンとオーラがはね上がり、爆発したオーラがギイイィィと不協和音を奏でて拳へ集中する。
 底の見えぬ真っ暗な瞳は、レオポルドをジッと見つめていた。
 その瞳に、レオポルドは更にゾゾッと悪寒を感じ、これが恐怖というものであることを察した。


 しかし、それは既に遅かった。


 瞬時に間合いを詰めたゴンが、放つ一撃。


「ジャンケン、グーー!!」
 強烈な打撃の鈍い音、そしてグシャリと西瓜が潰れるような音が辺りに響いた。




















 火の勢いが少しずつ弱まり、橙色から紺色へ、夜の帳が空を侵食していく。
 煤けた灰の中をヒソカがゆっくりと歩んで行くと、小さな人影が佇んでいるのが見えた。


「ゴン・・・♥」
 うっとりと、ヒソカは名前を呼ぶ。
 離れた場所からでも感じられた凄まじいオーラ。あれがゴンのものだと確信していたヒソカは、その場の惨状にも動じない。


 ゴンの足元には頭がグチャグチャに潰れた化物の死体が転がっていた。
 そしてゴンは、血塗れの拳を握り締めて俯いている。
 ポタリ、ポタリとゴンの拳から赤い血が滴り、地面を黒く染めていく。
 その姿を、ヒソカは恍惚と見つめていた。


「ゴン♥ 足元に転がってるソレ、ボクの獲物のつもりだったんだけどな♣」
 言葉とは裏腹に、ヒソカの口調には残念がる様子も咎める調子もない。むしろ、ゴンの素晴らしい成長ぶりを悦んでいるような、歓喜の色さえ伺える。


「ヒソカ・・・」
 俯き、表情を変えぬままゴンは静かにヒソカの名を呼ぶ。
「生き残っている人を、見かけた・・・?」
 顔を上げず、ヒソカに視線も向けずにゴンはそれだけ小さく尋ねる。
 ヒソカは肩をすくめ、おどけた調子で「さぁ?」と答えた。
「皆、焼け死んだんじゃないのかい?」


 ピクリ。
 ヒソカの軽い言葉に、ゴンの肩が震えた。
 そしてゆっくりと、眼だけをヒソカに向ける。


 その眼に宿るのは、深い深い哀しみと、悔しさと、自分自身に対する怒りと、遣る瀬無さ、無力さと――――
 大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、ゴンはヒュッと地面を蹴った。


 バチイィーー! 派手な音を立てて、ゴンの拳はヒソカの大きな掌で止められる。
 構わずゴンは更にヒソカの胴に蹴りを入れ、ヒソカはそれを受けながらゴンの腰に肘鉄を打ち下ろす。


「うわあああぁぁぁ!」


 泣き叫び、大声を上げながら、ゴンはヒソカに何度も殴りかかった。
 理由など無かった。ただ其処に、ヒソカが居たからだ。
 こんなものは、完全な八つ当たりだ。ゴン自身、それを十分承知していた。
 それでも、止められなかった。


 ヒソカを殴り、殴られ、吹っ飛ばされながら、ゴンは何度も何度も自問自答する。


 自分がもっと強ければ、最初に闘った時にレオポルドを仕留めていたら、もう少し長くこの村に滞在していたら。


 もしも。あの時。もっと。自分が――――。


 いくつもの反実仮想がゴンの頭の中を過ぎっていく。
 その度に、自分を責めて許せなくなって、遣る瀬無くて悔しくて、どうしようもなくなってしまう。


「うわあぁぁ! あああぁぁぁ!!」


 大声を上げて、涙を零して、感情の赴くままに拳を振るって、悔しさを撒き散らした。
 血塗れの拳が、ヒソカの血で更に赤く染まる。


 しかし、感情的な攻撃は、軌道が単純になる。
 拳をいなされ、がら空きになったゴンの腹にヒソカは容赦なく膝蹴りを入れる。肋骨がミシミシと音を立て、ゴンは胃液を吐き出す。その左頬を、ヒソカは渾身の一撃で殴り飛ばした。ゴンの小さな身体は何度か地面にバウンドしながら、五十m以上先まで吹っ飛ばされる。
 ガハッ、と血反吐を吐きながら立ち上がろうとするゴンに、ヒソカは再び蹴りを入れる。まるでボールが弾むようにゴンの身体は再び遠くへ飛ばされ、太い樹の幹に背中を強打し、ズルリと身体を横たえる。


 涙と鼻血で顔は汚れて腫れ上がり、骨も何本かイってしまっている。
 ゼェゼェと肩で荒く息をしながら、それでもゴンは少しだけ救われたような気持でいた。




 自分をどうしても許せないとき、痛みは弱く愚かな自分への罰として、心を安らげてくれるから――――。




 ヒソカが、地面に転がっているゴンに歩み寄る。
 当然ヒソカも無傷ではなく、こめかみや唇の傷口から流れた血が、ボタボタと顎を伝って地面に零れ落ちている。髪も乱れ、長い前髪が何本か顔に掛かった状態で、ヒソカはゴンを見下ろした。


「ゴン・・・♥」
 小さな身体を跨ぐように地面に膝をつき、覆いかぶさるような形で、ヒソカは吐息混じりにゴンの名を呼ぶ。
 そしてヒソカは荒く息を吐きながら、ゴンの髪を鷲掴みしてグイと引き上げ、顔を近づけて囁いた。


「ゴン・・・キミは未だ、足りない♦」


 目を細め、愛しげにゴンを見つめて囁くヒソカ。
 ゴンはヒソカが何を言っているのかよくわからず、痛みに眉をひそめながら訝しげな表情を見せる。
 ヒソカはゴンの傷付いた顔を見つめながら、喘ぐように続けた。


「キミはもっともっと、傷付かなきゃいけない。綺麗なままで、強くなれるなどと思い上がるな。もっと汚れて、傷付いて、屈辱にまみれ、ドロドロになって、そうしてもっと――――強くなれ」


 まるで愛の言葉のように、吐息混じりにそれだけ告げると、ヒソカは急に興味を失くしたようにゴンの髪をパッと離して立ち上がってしまう。
 そしてヒソカは、ゴンのことなど忘れたようにその場を離れ、唇を拭い髪を整えながら去ってゆく。


 残されたゴンは地べたに寝そべったまま呆然と夜空を見上げ。
 悔しさで込み上げる涙を止められず、誰も見てなどいないのに両腕で顔を隠し、しばらく地面に寝転がったまま、静かに泣きじゃくっていたのだった。
















 身体に残る甘い余韻。
 夜道を歩みながら、ゴンによって与えられた痛みと疼きを、ヒソカは恍惚と味わい愉しんでいた。


 不思議な感情だと、我が事ながらヒソカは思う。
 子供じみたゴンの八つ当たりを、甘んじて受け容れた。ゴンにとって、おそらく誰でも良かったはずの感情の捌け口として相手になってやったことが、ヒソカは自分でも不思議だった。他の誰であっても、そんな扱いは絶対に御免こうむるところなのだが。


 ゴンに告げた言葉も、ヒソカにとっては本心のはずだ。
 ゴンが強く成長することこそがヒソカの望みで、その為にゴンがもっと傷付き汚れる必要があると、ヒソカは本心から思っている。


 それなのに、何故だろう。


 どうかこのまま、純粋なまま、綺麗なままで居て欲しいとゴンに望む気持も、ヒソカの心の何処かに在るような気がしているのだ。
 ヒソカを真っ直ぐに見上げてくるあの透明な瞳の色が、これから先も失われることの無いようにと、心の何処かで願っている。


 相反する二つの望み。
 自分でも矛盾していることは理解っているのだが、ヒソカは、ゴンに対することだけは、自分の本心が何処にあるのか時々理解らなくなってしまう。


 二律背反する感情が同居しており、これは一体何なのだろうとヒソカは我が事ながら不思議に思う。
 自身の感情を持て余し、時に戸惑い、苛立ち、忌々しくさえ思う。


 忌々しさついでに、ヒソカは吸血鬼の長老に言われた言葉を思い出した。
 老人は、戦闘と殺人にのみ快楽を見出すことしかできぬ哀れな奇術師に、穏やかな笑顔でこう語り掛けた。




『貴方様も、他者を愛することを知れば、世界が少し違って見えますよ』





 その時は、何の感情も抱かなかった言葉だが。


(・・・そう、なのかな♠)
 自分でも、持て余してしまう得体の知れないこの不思議な感情こそが。





(これが、愛するというコトなのかな♦)





 だとすれば、それも確かに悪くないのかもしれないとヒソカは思い。
 拳に滲んだゴンの血を舌で舐め、満足そうに微笑んだのだった。



























 その翌日。
 ゴンはヴラド村から一kmほど離れた山の中の木陰で躊躇っていた。
 ハツの家から借りた鍵を、返すか否かについてである。


 返さなければいけないのはわかっているのだが、村は確実に未だ混乱の最中だろう。自分が憎まれ敵意を向けられることはまったく構わないのだが、その所為でハツたちに迷惑が掛かってしまっては困るとゴンは躊躇しているのだ。
 少し時間が経過してから戻って来ても良いのだが、本来返すべきものを預かりっぱなしでこの地を離れるのもゴンとしては心苦しい。
 結局ゴンはしばらく悩みに悩み、極力村人に姿を見られないよう警戒しながらハツの家に鍵を帰しに行こうと決めたのだった。










 昨晩、ヒソカとの戦闘の後、ゴンは村中を歩き回って生存者の確認をした。勿論村は壊滅状態で生存者も居なかったが、ゴンが見つけた遺体の数は存外に少なかった。十にも満たず、その中には幸いと言うべきなのかゴンの見知った顔は無かった。
 全ての遺体を丁重に埋葬し、ゴンは明け方、吸血鬼の村を後にした。


 昨夜の傷跡はいまだ濃く残っており、顔は腫れたままで、脇腹は動くと鈍痛が走る。それでもこの程度の傷はゴンにとっては日常茶飯事だ。気にすることなく、『絶』を使いながら山道をゆっくりと下って行く。


 村の入口ではなく山間から下ってゴンはヴラド村へと再び足を踏み入れた。『絶』を使って物影に隠れてしまえば、常人はほとんど存在に気づかない。稀に勘の鋭い子供が気づく程度だ。


 ハツの家へと向かう前に、ゴンはどうしても気になることがあって村の様子を探ることにした。昨日、ヒソカが傷つけた村人たちの安否である。
 手当てが早ければ命に別状は無い怪我ばかりだったはずだが、此処は山の中の辺鄙な所だ。大きな病院も施設も無く、小さな医院が一軒あるだけだとハツは言っていた。あれだけの大人数を治療できるだけの設備があるとも思えず、手遅れになった人が居なければ良いと願いながら、ゴンは医院の場所を探した。


 平屋建ての小さな医院はすぐに見つかった。中は怪我人で溢れかえっているようだ。
 ゴンは建物の裏にまわり、中の様子を伺う。窓が開いており、シンクで器具を洗っているらしき看護婦たちのおしゃべりが聞こえてきた。


「あの若い先生、もう居なくなっちゃったみたいよ」
「え〜! 優しくて良い人だったから、ずっとこの村に居てくれたら良かったのに」
「旅行の最中に偶々寄っただけって言ってたじゃない。すごい絶妙なタイミングだったけど、本当に助かったよね。ウチのお爺ちゃん先生だけじゃ、絶対あれだけの怪我人の治療なんかできなかったし」
「本当よね〜。でも、誰も名前も知らないなんて、ちょっとアレだよね。ブラック・ジャックみたいだよね」
「ブラック・ジャックにしては随分と優しくて真面目そうな人だったけどねー」
 アハハ、と看護婦たちは笑い合う。
 その様子から、流石に命を落とした人は居なかったのだろうとゴンはホッと胸を撫で下ろした。


 安心した瞬間に、ハッと気づく。
 看護婦の話の中に出てきた『旅の途中で立ち寄った医師』とは、オルトのことではないかと。
 証拠は無いが、ゴンには妙な確信があった。同時に、胸がジンと熱くなる。
 オルトたちが生きていてくれたと信じられること、人々の為に力を尽くしてくれたこと。
 ゴンは震える唇を噛み締めながら、その場を後にした。











 ゴンは引き続きコソコソと村の中を急いで移動し、ハツの家の裏手に回る。
 流石に玄関の郵便受けに鍵を返すのでは目立ってしまうので、家の裏の、窓の桟にでもそっと鍵を返しておこうとゴンは考えた。
 窓の外から家の中を覗けば、孫たちが玩具で楽しそうに遊んでいる。平和そのものの様子にゴンは心から安心して、ポケットの中から鍵を取り出した。


 その時、勝手口のドアが開いた。マズイ、とゴンは思ったが、不思議と気持は落ち着いており、その場で家の中から誰かが出てくるのを待った。
 出てきたのは、ハツだった。
 ゴンの姿を見て悲鳴を上げて恐怖に怯えるかもしれない。それでもゴンは、勇気を出して声を掛けた。


「ハツさん・・・」
 小さく呼ぶと、ハツは「ん?」と不思議そうに首を巡らせた。
 そしてゴンの姿を見ると、ハツは――――嬉しそうに、穏やかに微笑を浮かべた。


「おやおや、坊や、随分遅かったのう。おかえり」
 村人たちの騒ぎを全く知らないのか、ハツは出会った時と何も変わらぬ態度でゴンを迎えてくれた。ゴンは面食らって、素直に「た、ただいま」と返してしまう。


「心配したで、無事で何よりじゃ。随分男前になったみたいじゃがの」
 腫れ上がったゴンの顔を見て、ハツはそう述べる。ゴンは照れたように「アハハ」と笑みを返したが、ゴンに対するハツの態度があまりに自然過ぎて逆に戸惑ってしまう。


「あの、ハツさん。鍵、ありがとう。心配させて、ゴメンね」
 謝罪とお礼を同時に告げながら、ゴンは鍵をハツに返す。それを笑顔で受け取ると、ハツは「良いんじゃよ、無事ならそれで」と頷いた。
 ゴンは、ハツが何故、他の村人たちのようにゴンを警戒しないのか、戸惑い困惑していた。それを尋ねようか否か迷っているゴンに、ハツの方から穏やかに声を掛けた。


「坊や、前にも言ったじゃろ」
 ニコニコと語る老婆に、ゴンは首を傾げる。
「もし坊やが魔獣だったとしても、それは人と仲良くできる種類の魔獣なんじゃと。人間か化物かなんぞ関係なく、坊やは理由無く人を傷つけることができるような子じゃないんじゃろ」


 その言葉に、ゴンの胸の奥が再び熱くなる。


「ハツさん・・・ありがとう」
 ゴンがそう告げたのは、自分の事を信じてもらえたからではなく、人だから、化物だからという垣根を越えた受け容れ方をしてくれるハツの存在が、ゴンにはとても嬉しかったからだ。
 ゴンはもう一度礼を言い、頭を下げてその場を去った。これ以上迷惑を掛けない為にも、長居は無用だった。


 礼儀正しい少年の姿を、老婆はニコニコと嬉しそうに見送っていた。
















 村を出たゴンは、元来た道を足早に歩んでいた。村から離れるまではバスに乗る訳にもいかない。しばらくはまた、痛んだ身体を引き摺りながらの徒歩での移動となる。


 赤や黄色に色づいた山々は相変わらず美しく、澄んだ秋の空気が心地良い。けれど、今日も生憎の曇天模様で、空はゴンの気持と同様にすっきりしない様子だった。


 ゴンは、久しぶりに携帯電話の電源を入れた。中々充電ができそうにない状況だった為に、しばらく電源を落としておいたのだ。
 すると、電話が何度も震え出す。電話が掛かってきているのかと思いきや、大量のメールを受信している所為のようだ。開いて確認してみれば、差出人はほとんどがキルアだ。




『こっちは海に出て船旅中、アルカも初めて海を見るから喜んでる』
『夜は星が綺麗で、お前の故郷で見た星空を思い出すよ』
『お前は今、何してるんだよ?』





 写真付のメールが何通も送られてきている。キルアは元気そうで楽しそうで、それを見るだけでゴンは嬉しくなり、自分は独りではないのだと改めて気づかされる。
 ゴンは電話を通話画面に切り替え、発信先にキルアを選択した。
 3コールで、キルアは電話に応じる。


『おーー! お前、何やってんだよ! 随分電話繋がらなかったし、地下探検でもしてたのかよ!?』
 開口一番、いつも通りのキルアの反応にゴンは「アハハ」と苦笑する。
「ゴメンね、ちょっとゴタゴタしてて電源切ってたんだ。今、メール見た。すごいね、綺麗だった!」
 明るく告げるゴンに、キルアも電話の向こうで『だろー!?』と嬉しそうに返してくる。


『で、お前は何やってんの?』
 尋ねるキルアにゴンは「んーっと、旅行かな?」と適当なことを言い、『なんだよそれー』とキルアの不満を買ってしまう。ゴンは再び「アハハ」と苦笑を返す。


「あのね、キルア」
 言いながら、ゴンは空を見上げる。
 どんよりと曇っていて、それだけでキルアとの距離を遠く感じてしまう。
 『んー?』と返事をするキルアに、ゴンは告げた。





「あのね、今日はすごく良い天気で空には飛行機雲が掛かっててね、すごく綺麗だよ!」





 ゴンの明るい声に、キルアは『へぇ〜!』と嬉しそうに声を上げる。
 慣れない嘘でも、どうやら電話越しならキルアにも通じるようだ。


 まやかしの飛行機雲の代わりに、ゴンの頬に一筋、涙が零れ落ちて透明な線を描いた。