「もう、一人で全部片つけようとするんじゃねぇぞ」
軽い口調やいたずらっぽい苦笑顔とは裏腹に、青い瞳に宿る光はどこか憂いを帯びていた。
どことなく寂しそうな様子のキルアにゴンは一瞬息を呑んだが、ぐっと意を決したように「うん」とひとつ力強く頷いた。
「だいじょうぶだよ! 助けが必要なときは、真っ先にキルアに連絡する! だからキルアもそうしてね、約束だよ!」
真っ直ぐにゴンが眼差しを向ければ、キルアはニッと笑って「あったり前だろ」と返す。
「たくさん貸してるんだから、パシリにするくらいの感覚で、すーぐ呼びつけてやるよ」
からかうようなキルアの言葉にゴンは「グヌッ」と詰まってしまうが、すぐに笑顔を取り戻してキルアの顔を嬉しそうに見つめる。
少しの間、互いの瞳を見つめ合い、ひとつ頷いて。
「「じゃあ、また!」」
そうして二人は、別々の道を歩み出した。
1
ひとりだと時間を持て余してしまうなぁ、と思いながらゴンは足を止めてぼんやり空を見上げた。
真っ青な空にはひとすじ、白い飛行機雲が掛かっている。
世界樹の頂上にてジンとの再会を果たした後、ゴンはひとりで旅を続けていた。
くじら島を出立した時はひとりだったはずだが、気づいてみれば道中ひとりになることなど、ゴンにとっては初めてかもしれない。
船上ですぐにレオリオやクラピカに出会うことができたし、ハンター試験後はずっとキルアと一緒だったのだから。
キルアが隣に居ないことは正直とても寂しく、何かが足りないような欠乏感をゴンに重たくもたらしていた。
今こうしてゴンの頭上に掛かっているキラキラした飛行機雲も、いつもだったらそれを目にした瞬間に「ねぇねぇキルア、見て見て!」と指を差しながら二人で青空を見上げたことだろう。
ふとした日常の喜びや発見を分かち合える仲間が居るだけで、世界が何倍にも素晴らしく幸せに満ちたものになるということ。
キルアと離れて初めて、ゴンはそんな些細でしかしとても大切なことに改めて気づかされた。
キルアと共に居ることで、ゴンは無意識のうちに「楽しいことは二人で二倍、悲しいことは半分こ」、そんな風に日常を過ごしていたのかもしれない。
いつもより少し輝きが褪せているように映る飛行機雲を見上げながら、ゴンはそんなことを感じていた。
ゴンは今、世界樹から100kmほど南下した辺りに居る。
飛行船や船を使わず陸路を選んだのは、特に行く宛ても目的も無い旅だからだ。
秋が深まりつつある季節で、山間は赤や黄色に色づいている。
一年を通して温暖な気候のクジラ島で育ったゴンは、外の世界に出てから初めて紅葉というものを目にした為、目の前の色彩をいまだ物珍しく感じてしまう。
それらを堪能しながら今宵の宿を求めて近くの村か街へ出ようかと、ゴンは丁度通り掛かった乗り合いバスに乗り込んだ。
田舎らしいのんびりとした雰囲気の車内には老人が四人乗っていただけだった。
明らかに余所者でしかも子供であるゴンの姿に、一斉に全員の視線が注がれる。
しかしそれを全く意に介することなく、ゴンは運転手に「すみません」と礼儀正しく尋ねる。
「近くの村か街まで行きたいんですけど、何処で降りたら良いですか?」
凛とした声で尋ねるゴンに、運転手は一瞬きょとんとした表情を見せてから曖昧な笑みを浮かべた。
「近くも何も、終点まで村は無いんだ。一時間以上掛かるが、乗っていくかい?」
予定外の言葉にゴンは一瞬面食らったが、急ぐ必要も無い。「ハイ!」と笑顔でひとつ大きく頷き、ゴンは手近な席に腰を下ろした。
さて何をしていようかなとぼんやり思ったところで、ゴンの後方から「坊や、何処から来たんだい?」と穏やかな声が尋ねてきた。
振り返ればニコニコと笑顔を浮かべた老婆がゴンを興味深げに見つめている。
「あ、えっと・・・世界樹の辺りからずっと下って来たんだ」
「ホウホウ、世界樹かい。随分遠くから来たんだねぇ。アタシも若い頃、旦那と一度だけ見に行ったことがあるよ。立派なもんだったねぇ」
懐かしむように目を細める老婆に、別の老人が「お前さんの若い頃なんて言ったら、世界樹もほんの苗木だったんじゃないのかい?」と揶揄の言葉を挟む。
老婆が「アンタも似たようなもんじゃろ」と憮然として返せば、老人は「ワシはお前さんより二つも年下じゃぞい」と言い返す。
傍から見れば年の差などまったくわからないその二人のやり取りを、ゴンは困ったように笑みを浮かべながら眺めていた。
そうして他の老人たちも会話に加わり、いつの間にかバスの中はゴンをゲストに迎えた集会所のような様相と化してしまっていた。
老人というものは、若い人間と話をしたくて仕方ないのだ。
聞けば彼らは月に一度の検査の為に、離れた街にある総合病院へ赴いた帰りだという。
村には小さな個人医院があるだけなので、毎月こうして二時間以上もバスに揺られて街へと出掛けて行くそうだ。
それを聞いて大変だなぁと思いながら、ゴンは老人たちから半ば強引に手渡されたみかんやお菓子をもぐもぐと食べていた。
「それはそうとお前さん、物騒な時期によくもまぁこんな辺鄙な村にお越しなすったな」
ゴンに最初に話し掛けた老婆が心配そうに言い出したが、ゴンは何のことだかわからず首を傾げて「物騒な時期?」と聞き返す。
すると老婆は「アレま、お前さん村の事件のことも知らずにこんな所までやって来たのかい」と更に心配げに眉をひそめる。
「最近なぁ、ウチの村では子供が三人も連続で殺されちまってんだ」
別の老人がズバッと言い切った言葉に、妻と思しき老婆が「コレ、アンタそんなおっかないことを大声で・・・」と窘める。
血生臭い事件にはむしろ何度も巻き込まれてきたゴンだが、そんなものとは無縁そうに見える老人たちの口から出た話題の不釣合いさに眉をひそめ、「犯人はまだ捕まっていないの?」と神妙な面持ちで尋ねる。
老人たちは誰が話すべきかというように顔を見合わせ、やがて最初の老婆が重々しく口を開いた。
「ああ、まだ捕まっておらん・・・じゃが恐ろしいのは、犯人は人ではなく、化物らしいということじゃよ」
「化物!?」
驚いて尋ね返すゴンに、老人たちは神妙な面持ちで頷く。
「魔獣というヤツなんかな? アタシらはよくわからんが、とにかく最近、子供を狙う化物が夜になると現れるっちゅー話でな。ちょっと前まではどこの家でも戸締りなんぞせんでも出掛けられるような呑気な田舎の村じゃったが、今じゃみんな厳重に鍵掛けて雨戸も閉めて、特に夜は絶対に出歩かんようにしておるよ」
語る老婆の顔は、先ほどまでの穏やかな表情に比べると幾分陰が差していた。
和気藹々としていた車内の雰囲気も暗くなりかけたところで、別の老人が「なーに、大丈夫じゃて」と明るい声を出した。
「その為に村長がハンターとやらを雇ったんじゃろ? 化物なんぞ、あっという間にやっつけてくれるはずじゃて」
『ハンター』という単語にゴンが驚いて詳細を尋ねようとしたところで、老婆に「ところで坊やは何の用があって村へ行くつもりなんじゃ?」と先んじられてしまい、それについては聞けぬままにゴンは慌てて質問に答える。
「えっと・・・特に目的がある訳じゃないんだ。ずっと旅をしているから、近くの街か村に立ち寄れたら宿に泊まりたいなって思っていただけ」
ゴンの答えに老人たちが「おや、それは」などと言いながら顔を見合わせる。
「化物が出るのはともかく、それを退治するための輩が宿に泊まっておるでな。小さな村じゃて、宿は一軒しかないもんで、果たして坊が泊まれる部屋があるかのぅ・・・」
老人の弱った言葉に、ゴンも「えっ」と心配そうに反応する。
「そっかー・・・それじゃあ野宿かなぁ・・・」
眉尻を下げて呟いたゴンに、老人たちは反射的に「それはイカン!」と一斉にクワッと叫んだ。
「お前さん、ワシらの話を聞いておったんかい! 化物が出るんじゃぞ、しかもそいつは子供ばかりを狙うんじゃ、お前さんみたいなちっこい子供を一人で野宿なんぞさせるわけにいくかいな!」
「そうじゃそうじゃ、泊まる場所が無かったらウチに来たらええ!」
「いや、ウチにおいでなさいな、大したもてなしもできんが歓迎するぞえ」
集中砲火を浴びクラクラと目を回しかけるゴンだが、老人たちのおせっかいとも言える優しさに苦笑を浮かべて「ありがと、でも悪いよ」と告げる。
が、最初にゴンに声を掛けた老婆が笑いながら言い添えた。
「何が悪いもんかね、こうして出会ったのも何かの縁じゃ。うるさい年寄りどもの話に付き合ってくれた礼くらいさせておくれ」
そう言われて、礼など既に十分過ぎるくらいしてもらっているのに、とゴンは膝の上に食べ散らかしたみかんの皮やお菓子の空き袋を困ったように見下ろした。
しかしニコニコと嬉しそうに微笑んでいる老婆の姿に、ゴンはほんのりと、故郷のくじら島で待つ祖母のことを思い出して、伺うように首を傾げた。
「うん・・・それじゃ、お願いしても良い?」
おずおずと言い出すゴンに、老婆は再びニッコリと笑顔を見せ「もちろんじゃ」と嬉しそうに答える。
いつの間にかバスは目指す村のすぐそこまで近づいており、陽も傾きかけていた。
村の中心地にあるバス停で老人たちはめいめいバスを降り、ゴンも運転手に「ありがとうございました!」と礼を告げてから老人たちに続いて下車する。
そして泊めてくれると申し出てくれたハツという名の老婆の後について歩き出した。
辿り着いた村の名は「ヴラド村」という。
人口は千人にも満たない小さな集落のようだが、その分温かみのある村に見えた。
規模的にも、優しい人々の様子もくじら島を髣髴とさせ、ゴンはなんとなく懐かしい気持になる。
細い路地には夕餉の匂いが漂っており、子供たちが「バイバーイ、また明日遊ぼうねー!」と手を振り挨拶を交わしている。
とても長閑で平和な村だなぁとゴンは思う。
しかし。
「・・・化物が、出るんだよね」
老婆と並んで歩くゴンは険しい顔でポツリと呟く。
こんなに平和そうな暮らしを脅かす化物の存在に対する憤りが顔に出てしまっただけなのだが、それを見たハツは「なーに、ハンター様がいらっしてくれたんじゃ、あとは任せておけば大丈夫じゃて」とゴンの不安を取り除くような言葉を掛けてくれる。
どうやら怖がっているものと勘違いさせてしまったようだ。
「まったく惨い話じゃよ・・・ウチにも孫が二人居るが、あの子らが無残に殺されてしまうようなことがあったら、アタシはもうそれだけで心臓が止まっちまうよ。アタシらみたいな老い先短い者の命ならいくらでもくれてやるのに、あんなに小さくてめんこい子供らが先に死んじまうなんて、残された家族がかわいそうでかわいそうで」
「・・・・・・」
ハツの言葉に、ゴンは無言で俯く。
大切な者を非道な暴力で奪われる悲しみを、ゴンは痛いほどよく理解していた。
つい最近、その痛みを嫌というほど味わったからだ。
幸いというべきなのか、ゴンにとっての恩人――――カイトは、一度は敵に命を奪われたものの、その記憶や能力をほとんど持ったままキメラアントとして生まれ変わることができた。
けれど、そんなことははっきり言って奇跡だ。
通常の場合、人は死ねばそれで終わりだ。
死んでしまった人間は、決して戻っては来ない。
戻らない子供を、それでも諦め切れずに帰りを待ち続けずにはいられない。
子供を喪った家族や親の気持をゴンはそんな風に思い描く。
苦くて痛い味が胸の中に広がり、ゴンは唇を噛み締める。
押し黙ってしまったゴンを元気付けるようにハツが「ホラ、もうすぐウチに着くぞい! 娘夫婦と一緒じゃが、気兼ねなくゆっくりして行きなされ」と声を掛ける。
が、その内容にゴンは少し慌ててしまう。
「えっ、娘さんたちはオレが来ること知ってるの? いきなり押しかけたら迷惑じゃ・・・」
「田舎の村じゃて、人が来るのはむしろ嬉しいもんじゃよ。まだ時間も早いし、夕飯の準備も間に合うじゃろ。何も心配することはない」
そう言ってカラカラと笑うハツに、ゴンもようやく笑顔を見せる。「ありがとう、ハツさん」とゴンが改めて礼を言うと、ハツはまた嬉しそうに笑った。
それから五分ほど村の中を歩いて、ハツの家に到着した。
途中すれ違う村人たちがその都度ハツに「こんにちはおばあちゃん」と優しく声を掛けていく。
まるで村全体が家族のような温かさに、ゴンは羨ましささえ感じてしまう。
ハツの家は木造だが、かなり大きな平屋建てだった。
おお、と驚いて目を丸くしているゴンにハツがなんでもないように言葉を添える。
「土地が余っとるでな、家が広いのはええんじゃが、掃除するのが大変なんよ」
やれやれと言いながら、ハツは家の前の門を開き前庭を通り抜けていく。
手入れのよく行き届いた前庭をキョロキョロと見渡しながらゴンは後に続く。花壇に植えられたピンクや白のコスモスが小さく風に揺られていた。
帰ったぞーい、とハツが広い玄関で声を上げると女性と子供たちが「おかえりー」と声だけ返してくる。
弱冠いたたまれない気持を抱えながら、遠慮がちにゴンが「おじゃましまーす!」と声を上げたところで、奥から三十代半ばくらいの女性がちょこんと顔を覗かせた。
「あら、どちら様?」
そばかすの浮かんだ女性が玄関まで出てきて笑顔で溌剌とゴンに尋ねると、代わりにハツが「アタシの新しい彼氏じゃ」といたずら笑みを浮かべて答える。「もう、おばあちゃん!」と女性が嗜めればハツはカカカと楽しそうに笑う。ゴンもクスッと苦笑しながら「ゴン=フリークスです。あの、さっきバスの中でハツさんと会って・・・」と事情を説明しようとしたが、遮るようにハツがニイヤリ笑って「あんまり可愛い子だもんで、ウチに泊まったらエエと無理やり連れて来たんじゃ」と言葉を挟む。
それを聞いて、女性が「あらまぁ」と嘆く。
「ごめんなさいね、ウチのおばあちゃんが無理言ったみたいで。他に予定は無かったの? 大丈夫?」
申し訳無さそうに女性がゴンに尋ねるが、ゴンは恐縮して慌てて首を横に振る。
「とんでもないです! 泊まる所も決まっていなかったから本当に助かります。村の宿に泊まろうと思っていたんだけど、ハンターの人たちが泊まってるからきっと無理だろうって言われて」
眉尻を下げて困ったように語るゴンの説明に、ハツの娘と思しき女性はウンウン、と納得したように頷いて笑顔を見せた。
「そうね、ハンター様たちは四、五人くらいいらっしゃるって話だし、宿の部屋はいっぱいでしょうね。そういうことなら任せておきなさい! 子供も居るから騒がしいかもしれないけど、使っていない部屋もいくつかあるし、いくらでもゆっくりしていってね」
笑顔で告げる女性に、ゴンは恐縮しながらも笑顔を返して「ありがとう!」と告げる。
そして、隣に佇むハツにも改めて礼を言うと老婆もニコニコと嬉しそうに笑顔を浮かべていたのだった。
ハツの二人の孫は、上が八歳、下が六歳の男児だった。
二人とも人見知りなど無いようで、ゴンが今日は家に泊まるという紹介を受けるとすぐに「遊んで遊んで!」とゴンにせがみ出した。
年下の相手はくじら島のノウコ以外にしたことのないゴンとしては、少年相手に少しくすぐったいような感覚を抱きつつ、彼らが持ち出した玩具やゲームで仲良く遊ぶことにする。
二人の子供は、見知らぬ年上の少年に遊んでもらえることが余程嬉しいのか、とても楽しそうにキャッキャとはしゃいでいた。
ゴンがひとしきり遊び相手を務めた後、母親の提案で少年たちと一緒にお風呂に入り、もうすぐ夕飯、という頃に玄関から「ただいまー」と男の声が届いた。
「お父さん、帰ってきたよ!」
弟が嬉しそうに声を上げ、玄関へ出迎えようと子供たちが立ち上がる。
挨拶しなければと思い、ゴンも慌てて少年の後を追った。
ゴンが玄関へ辿り着くと、既に二人の子供と母親が父親と思しき優しそうな男を迎えていた。
が、父親の後ろにはもう一人、顎鬚を生やした巨躯の男が佇んでいる。
誰だろう、と不思議に思ってゴンが挨拶するのを躊躇していると、巨体の男は大きな眼でギロリとゴンを睨んで「お前か」と呟いた。
あまり穏やかでない視線を向けられて、ゴンは少し身構える。
山男風の大男はわざとらしく肩をすくめ、「あ〜あ」と溜息を吐いてから一家に向けて語りだした。
「お前さん方、一体どういう神経をしているんだ? こんな物騒な時期に余所者を家に入れるなんて。子供だからといって油断したのか? 魔獣はたやすく人に化ける。喰らった子供の皮をかぶることくらい、簡単にやってのけるんだぞ」
男は責めるような口調で母親に説明する。
突然のことに戸惑う人の好さそうな父親と、全く思いもしなかった指摘をされて驚く母親と、キョトンと母親を見上げる少年たちと。
傍らで、ゴンはムカムカと怒りを腹の内に溜めていた。
ゴンを泊めてくれようとしてくれた彼らの善意を、突然現れたこの男は「警戒が足りない」と責めているのだ。
ムッとしてゴンは男に叫んでいた。
「オレは魔獣なんかじゃない! そんなの、オレが一番よくわかってる! この人たちは、親切でオレを泊めようとしてくれただけだ!」
ギリッと眼差し強く巨体の男を睨みつけるゴン。
しかし、男はハンと嘲るようにゴンを見下ろして尋ねた。
「それなら、お前が魔獣ではない証拠はあるのか? IDも無駄だぞ、魔獣が本来の持ち主の物を盗んでそいつに化けているだけかもしれないからな」
言い切られ、ゴンはグヌヌと歯噛みする。
確かに、証拠は無い。
けれど、まさかそのような疑いを掛けられるとはゴン自身思いも寄らなかったことでもある。
自分が魔獣などではないということは、当然自分では十分承知していることだが、それを証明する手立てを確かにゴンは持ち合わせていないのである。
悔しさを噛み締めて、ゴンはグッと男を睨みつけることしかできない。
不安そうな表情の母親は、子供を抱き寄せるようにして心なしかゴンから距離を遠ざけているように感じる。
巨体の男の無言の圧力が、ゴンに圧し掛かる。
するとそこに、間延びした声が届いた。
「なーにを騒いどるんじゃい」
ひょこひょこと玄関に現れたのは、風呂上りと思しき祖母のハツだ。
ホカホカと気持良さそうなさっぱりとした顔で不思議そうに状況を見つめている。
その姿を振り返り、母親は祖母に不安そうに呟く。
「あのね、こちらの、ハンター様が・・・ゴン君が魔獣かもしれない、って・・・」
「ハァ?」
驚いて、素っ頓狂な声を上げるハツ。
目を大きく見開いてから、まずはゴンを、そして大男を見上げて首を傾げた。
そしてハツは、ハンターと呼ばれた巨体の男に嘆くように諭した。
「お前さんの目は節穴かい? ハンター様ともあろう者が、善い者と悪い者の区別もつかんのかい。眼を見れば、相手が善いか悪いかくらい判断つくじゃろ。もしその子が魔獣じゃったとしても、それは人と仲良くできる種類の魔獣なんじゃろうな」
さすが年の功というべきか。
根拠は全く無いが、妙に説得力のある言葉にゴンはありがたい気持で目を見張る。
一方、小さな老婆に諭された巨体のハンターは、指摘を受けて激昂するのかと思いきや。
「アーーハッハッハッハ!」
男は突然、嬉しそうに豪快に笑い出した。
その態度の豹変に、ゴンを含めた一同がビクッとする。
ひとしきり笑い終えたところで、男はニヤリと笑んで「その通りだよな、婆さん」と告げた。
「このゴンは、今やハンター界で一二を争う有名人だ。危険な魔獣なんかじゃないことくらい、此処に居る誰より俺がよく知ってるぜ」
その言葉にポカンとするのは一家だけでなく、ゴンも同じだった。
そんな一家の様子に、巨体の男が不思議そうにゴンを見下ろし「なんだ? お前さん、自分の素性をこの人たちに明かしてないのか?」と尋ねると、ゴンは少し照れたように頷いてから「ていうかおじさん、なんでオレのこと知ってるの?」と戸惑いながら問い掛けた。
「バカ言え、お前。あんな選挙があった後だぞ、お前さんのことを知らないプロハンターなんか居るはずねぇだろ」
茶化すように告げる男の言葉に、ゴンは「あ、そっか」と舌を出してテヘヘと笑った。
同時に、この男がプロのハンターであることをゴンは知る。口は悪いが、根は良さそうな人物だ。
「あ、あの・・・事情がよく飲み込めないのですが・・・その子は魔獣ではない、ということでよろしいのでしょうか?」
そこで、おずおずと声を上げたのは一家の父親だった。
帰宅早々、見知らぬ客人が魔獣かもしれないなどと騒ぎ立てられて迷惑千万のはずだが、その表情に浮かんでいるのは単純に困惑だけだった。
ハンターである男はニッカリ笑って「オウ!」と威勢良く答える。
「悪かったなご主人。わざわざ家にまで連れてきてもらって。村の人たちが、この家の婆さんが見知らぬ子供を連れて歩いてたって言ってたのを聞いて不安に思ったのは確かだが、コイツの姿を見て安心したよ。ゴンが居るなら百人力だ」
男の説明に困惑を深めるのは父親だけでなく、母親も祖母であるハツも同じだったが、男はもう一度「アッハッハ」と高らかに笑い、何故か得意げにゴンのことを紹介した。
「このゴンは幼いながらもプロのハンターなんだ。しかも父親はジンと言って・・・まぁ色々破綻した人間ではあるが、ハンターとしての実力は折り紙つき。つまりこのゴンは、ハンター界のサラブレットって訳だな」
そう紹介され、ゴンの正体に大人だけでなく子供たちさえも目を剥き「えーっ!?」と声を上げて驚く。
一方のゴンはただただ恐縮して、恥ずかしそうに俯いて頭を掻いていた。
すると男はその場でしゃがみ、ゴンと目線を合わせてニッと笑みを浮かべて語り掛けた。
「ゴン、色々吹っかけて悪かったな。俺の名前はラムジ。一応プロのハンターだ。この村の村長に雇われた。話は聞いているかもしれないが、この村に出る化物――――ヴァンパイアを退治してくれという依頼だ」
「ヴァンパイア・・・」
おとぎ話の中でだけ聞いたことのある化物の名を、ゴンは無意識に復唱する。
するとラムジと名乗ったハンターは、神妙な顔つきになって頷いた。
「そうだ。俺たちは専門的にそいつらをハントする、いわばヴァンパイアハンターなんだ。チームは四人、俺以外はアマチュアだが腕は確かだ。そこでゴン、物は頼みなんだが、この依頼、お前さんの手を借りることはできないか?」
突然の誘いにゴンは驚いて目を丸くしたが、グッと顎を引いて即答する。
「うん! オレも、化物の話を聞いた時から、そいつをやっつけられないかなって思っていたんだ。是非協力させてください!」
拳を握り締めて告げるゴンに、ラムジはニッと笑って「そうこなくっちゃな!」と嬉しそうに返す。
「それなら早速、俺たちが泊まっている宿で作戦会議といきたいところなんだが、今から来てもらえるか?」
その提案に「うん!」と答えようとしたゴンだったが、それより先にゴンのおなかがグウウゥゥと鳴った。
思わず目を点にして頬を赤らめるゴン。
それを聞いて、後ろで呆然と成り行きを見守っていた子供たちの母親がクスクスと笑い出した。
「腹が減っては何とやら。まずはごはんにしましょうか。よろしければハンター様もご一緒にいかがですか?」
いっぺんに和んだ空気に微笑みながら母親がラムジに尋ねると、ラムジも笑いながら答えた。
「奥さん、お誘いありがとう。だが、俺の方も仲間たちが腹減らして待ってるはずなんで・・・そうだな、一時間後くらいにもう一度ゴンを迎えに来たいんだが、それで良いかな?」
断る理由があるはずもなく、ゴンは元気に「うん!」と頷いて、一家揃って玄関でラムジを見送る。
そうして今更にようやくゴンは一家の主である父親に挨拶をし、家族揃っての夕飯に預かることになったのだった。
夜八時過ぎにラムジは再びハツの家を訪れ、ゴンを伴って宿へと向かうことになった。
ゴンがただの「お兄ちゃん」ではなくハンターというヒーローだと知った子供たちはもっとたくさん話を聞きたいとゴンが出て行ってしまうことに対してごねたが、ゴンは苦笑混じりに「すぐ戻ってくるから」と約束して家を出る。
宿への道の途中でラムジが「さっきは悪かったな」とゴンに謝罪の言葉を告げた。
「余所者が怪しいって可能性は、低いかもしれないがゼロじゃない。勿論、お前さんの顔を見た瞬間に疑いは完全に晴れたが、村人たちには多少の警戒心を持ってもらいたくてああいう言い方をした」
迷いの無いラムジの言葉に、ゴンも神妙な顔つきで「うん、わかってるよ」と返事をする。
「田舎の人間ってのはお人好しなのは結構なんだが、こういう状況の場合、それが逆に被害の拡大に繋がりかねない。これ以上の被害を出さない為にも、村人にも自衛心を持ってもらわないとな」
この場に居ないハツの一家に教え諭すような言葉に、ゴンは再び頷いた。
事実、先ほどのやり取りが身に染みたのかゴンは一家の母親から合鍵を預かっていた。
夜にゴンが戻ってきた際に本人であることを確認する術が無い為、呼び鈴を鳴らしてもらうよりゴン自身に鍵を開けて入ってきてもらった方が安心だと判断したようだ。
ゴンとしてもそちらの方がありがたい。
「しかしお前さん、元気になって本当に良かったな」
しみじみ噛み締めるようなラムジの一言にゴンが顔を上げると、ラムジは大きな双眸を細めて微笑みかけている。
突然の言いがかりで第一印象は悪かったものの、その優しそうな笑顔でゴンの中のラムジの好感度が上がる。
ゴンも嬉しそうにニッカリ笑って「うん!」と元気に答えた。
「オレの仲間や友達がしてくれたことだから、みんなには本当に感謝してる」
どこか遠くを見つめるようにしながらゴンはそう告げる。
キルア、レオリオ、仲間たちの顔がゴンの脳裏にはっきりと浮かぶ。
ラムジは「そうだな」と言いながら頷いた。
「俺もあの演説に動かされてレオリオに投票した一人だからな。あんな熱い男が心底助けたいと願ったお前さん自身にも興味があった。偶然とはいえ、こんな所で会えて嬉しいぜ、ゴン」
まるで有名人のような扱いに、ゴンは「エヘヘ」と照れてしまう。
実際、プロハンターの間では知らぬ者の居ない人になってしまったが、いかんせんゴン自身が何かを成し遂げた訳でもなく大きな功績を残した訳でも無い為、そんな扱いはどうにもゴンには居心地が悪い。
一方ラムジは少し困ったように頬を指で掻き、目線を上に向けながら呟いた。
「お前さんに協力を頼んでる立場でこんなこと言うのも何だが・・・具体的に何があったのかわからんが、折角助かった命なんだ。絶対に失くすなよ」
ゴンは目を丸くして「う、うん・・・」と戸惑いながら頷く。突然のラムジの教え諭すような口調にゴンはキョトンとしてしまう。
しかし、そんな様子のゴンに構うことなくラムジは言葉を続ける。
「お前さんはまだ子供なんだ。勿論、ハンターたるもの危険とは隣り合わせの日常かもしれないが、それでも命は大事にしろ。特に、ジンが生きている間は絶対にだ」
段々と口調が強くなってくる。ジンの名前を出されて更に戸惑いを重ねながら、ゴンは再び頷く。
するとラムジは、まるでゴンに対して言っているのではないかのように、目線をゴンから外してボソリと呟いた。
「親より先に子供が死ぬってのは、何よりも不幸な・・・最大の、親不孝なんだからな」
それは、今この村で起こっている出来事、即ちヴァンパイアに子供が殺されたことに対する憤りなのだろうか。
ゴンは不思議そうにラムジの横顔を見上げていた。
次の瞬間。
ゴンの人並み外れた嗅覚が微かに厭な匂いを感じ取った。血の匂いだ。
ピタリと足を止めるゴン。ラムジが振り返って「おい・・・」と声を掛ける。
しかしゴンはそれを気にも留めず、集中して匂いの出所を探る。
南東約2km先、方角は風下。野生の獣であれば狩りの態勢ということだ。だが、風下に居るにも関わらず隠すことのできない血の匂い。ただの獣にしては、随分とお行儀が悪そうだ。
ゴンは、鼻をスンスンと鳴らしながら匂いの方向に足を向ける。
「おい、ゴン・・・?」
不思議そうに尋ねるラムジに、ゴンは曲者の気配に集中しながら背中越しに告げた。
「敵が、居るかもしれない。こっちの方向」
言いながら、指を差す。ラムジは「何っ!?」と警戒するが、周囲からは何の気配も感じられない。
「多分、2kmくらい先。オレ、『円』はできないけど鼻が良いんだ。血の匂いがする」
はっきりと言い切ったゴンの言葉に、ラムジは息を呑む。
ゴンは、匂いのする方向に眼差しを鋭く向けながらラムジに告げた。
「ラムジさんは仲間の所に行って呼んできて! オレはちょっと様子を見に行ってみるから!」
そう言って今にも走り出そうとするゴンに、ラムジは強い口調で「バカ野郎!」と怒鳴る。
「お前、今俺が言ったこと聞いていなかったのか!? 一人で早まる必要は無い! 仲間を待ってから迎え撃っても十分だ、お前の命を危険に晒すわけにはいかん!」
泡を飛ばさんばかりに喚くラムジとは裏腹に、おそらく二まわり以上も年下のゴンは冷静に答えた。
「大丈夫だよ、ラムジさん」
そこで、初めてゴンはラムジを振り返り、ニッと口元に笑みを浮かべる。
「オレの命は、オレ一人のものじゃない。よくわかってるから、大丈夫」
微笑んだ口元とは裏腹に、瞳は決意に満ち満ちており、意志の強さを雄弁に語っている。
その眼に、ラムジは何故か背筋がゾッとする。
「オレのことなんかより、村の人たちを危険に巻き込んじゃいけないと思うんだ。もしかしたら敵じゃないかもしれないけど、どちらにしても村の外で迎え撃った方が良いと思う」
静かに自己の判断を語るゴン。
ラムジはゴンの雰囲気に飲まれてしまい、これ以上言葉を続けることができなかった。
「じゃ、オレ行くね」
もう一度、今度はニッコリ子供らしい笑顔を見せてからゴンは猛スピードで来た道を逆方向に走り去って行った。
その並外れたスピードにラムジは呆けたように後姿を見送っていたが、すぐに我に返り仲間に知らせるべく宿への道を辿ったのだった。
走りながらゴンは思う。
ラムジの能力は未知だ。ヴァンパイアハンターというくらいだから、それに相応しい能力なのだろう。年齢も経験も上。それらはおそらく、見習い学ぶべき点だと思う。
けれど、オーラの総量が圧倒的に違うことは、否が応でもゴンは感じ取ってしまう。
例えるならラムジは、グリードアイランド内にて一度目にソウフラビでパーティーを組んだ仲間たちと同じくらいのレベルだ。
彼らが持っていた戦略、経験、技術はゴンには無いものだったが、単純な念能力者としてのポテンシャルはゴンやキルアの方が圧倒的に上だったのは言うまでもない。
足を進めるにつれ濃くなる血の匂いを嗅いで、ゴンは察する。この先に居るのは、間違いなく村の子供たちを襲った化物だと。
『絶』を使うつもりも無いのか、強い殺気とオーラがゴンに向けられているのがわかる。
ビリビリと肌を刺すような戦場独特の空気だ。
それを初めて感じた時のことを、ゴンは今でも決して忘れることは無い。
ハンター試験にてヒソカと初めて対峙した時のこと――――それはつまり、恐怖とスリルと、興奮だ。
更に強くなる血の匂いと敵の気配に、ゴンはあの時初めて感じたものと同じ感覚を抱く。
『村の人たちを助けたい、罪も無い子供を殺した化物を退治したい』。
そんな大義名分をも置き去りにするような感覚が、ゴンの胸の奥底、お腹の裏の辺りでじりじりと燻っている。
おそらくラムジのようなハンターは、このような感覚を求めてはいない。
けれどゴンは――――そしておそらくゴンに初めてこの感覚をもたらした奇術師もまた、いつも心のどこかでこの感覚を求めて、飢えている。
原初の衝動のようなものをゴンは強く感じて、自らを落ち着かせる為にも一度足を止めた。
神経を研ぎ澄ます。匂いはもうすぐ側だ。既に村から外れ、此処は森の中。月明かり無く、梟の鳴き声がホゥホゥとこだまする。風が吹き、ザワザワと木々がさざめく。同時に濃い血の匂いが、揺らぐ。
再び、風が強く吹いた。ザザザッと大きく木々のざわめく音が鳴る。紛れて、何かが高速で木々の間を移動し、頭上からゴン目掛けて落ちてくる。
瞬時に、ゴンは地面を蹴って左に跳んだ。
次の瞬間、ゴンが先ほどまで立っていた場所から土煙が上がる。煙幕の中から、異様に長い腕がヌッと伸び、爪先がゴンの頬を掠める。異様に節くれ立った指と、まるで猛禽類のように鉤状に伸びた太く大きな鋭い爪。それだけで、相手が人間でないことなど容易に見て取れる。
ゴンは上半身を逸らせて敵の一撃をかわしながら、後ろに飛んで間合いを取る。
敵の初撃が巻き上げた土埃は風に吹かれて薄れていく。視界が晴れ、夜目を利かせて目を凝らせば、ゴンが元居た場所は大きく地面が抉れている。そのすぐ脇に佇む生き物は、まさしく化物と呼ぶに相応しい風体をしていた。
身の丈は二メートル以上あろうか。人の衣類を身に纏っているが姿形は獣に近く、腕が異様に長い。尖った耳元まで裂けた口からは鋭い犬歯が覗き、血生臭い呼気を放っている。何より印象的なのは、闇夜に輝く深紅の瞳だった。
ラムジは敵をヴァンパイアと称していた。しかし、ゴンが元々思い描いていたイメージとはかけ離れた姿に、警戒を強くする。
「お前が・・・村の子供を襲ったのか?」
聞くまでも無い質問かもしれないが、それでもゴンは確かめずにはいられない性質だ。真っ直ぐに化物を鋭い視線で捉えたまま尋ねれば、敵の顔が醜く歪む。
「ゲエェッ、ゲッ、ゲッ。オ前も食ワれに来タノカ? 丸々シテ美味ソウなガキだナぁ」
奇妙な発音ながら、人語を発する化物。歪んだ顔は、どうやら笑ったつもりのようだ。
挑発か脅しのつもりか、化物は耳障りな笑い声のようなものを上げ続けているが、ゴンは敵に対して何故かムキになって「オレ、丸々なんてしてないよ! 太ってないもん!」と場違いな指摘をしてみせる。以前、筋トレ最中に「お前、意外とプニプニだよな」とキルアにからかわれたことを根に持っているが故の間抜けな発言だったが、ゴンのペースを知らない化物は「・・・・・・。」と沈黙を返すのが精一杯だった。
「ねぇ。これからはもう人を食べないって約束してくれたら、君を殺さずに済むんだけど」
たじろぐ化物に構わず、ゴンはマイペースに話を進める。化物にしてみれば、己の姿を見て怯えもせず平然と会話をし、あまつさえ『お前を殺さずに済む』などと言ってのけるゴンのあまりの傍若無人ぶりに呆気に取られてしまう。
が、気を取り直したように再び耳障りな笑い声を上げて、化物は耳まで裂けた口を更に吊り上げた。
「約束なンかシテも意味無いぜェ・・・オ前は今ここデ、食わレテ死んジマウんダカラなァ!」
叫びながら化物は長い長い腕をブンと振り回し、鋭い爪をゴンに向ける。
交渉が決裂したのを理解して、ゴンは「最初は、グー」と小さく呟きながら、溢れんばかりのオーラを練った。同時に、ゴンの小さな身体を中心に樹木は大きくゴオッと音を立てて揺らぐ。
敵の腕がゴンに伸びる。それを、寸でのところでかわしながらゴンは相手の懐に入り込む。
「じゃんけん、チー!!」
ゴンの掛け声と共に、暗闇に鮮血が飛び散る。
剣状に伸びたオーラは敵の伸ばした右腕を切り裂き、肘から下の部分が弧を描いて地面に転がり落ちた。
グォアアアアァァァ! 苦痛の悲鳴が敵の喉から迸る。赤い眼が、より一層深い赤色に染まる。しかしゴンは怯むことなく、追撃を与えようと再度『練』を行い拳にオーラを集中させる。
しかし。
「・・・っ!?」
唐突に、ゴンの左脇腹に走る違和感。
熱い、と感じて繰り出し掛けた拳に躊躇が生じた。その一瞬の隙をついてゴンの拳を敵が残っている左掌で掴み、潰そうとするほどの力でグリリと握り締める。そのまま腕を引き上げられたゴン。
敵は拳を掴んだまま腕を振り上げ、ゴンの身体を勢いよく地面に叩きつけた。
「グッ・・・!」
叩きつけられた衝撃自体は『堅』でガードできた。しかし、左腹に感じた熱の正体を知って、ゴンは愕然とする。
切り落としたはずの敵の右手が大きな爪を立てて、ゴンの腹に突き刺さっていた。ゴンを見下ろす敵の目が再び赤くギラリと光ると、先を失った腕から滴る血が蛇のようにうねり、ゴンの腹に突き刺さる腕の断面と結びつく。千切れたはずの敵の大きな手は、まるで最初から切り離しが自由であったかのように元あった場所へ戻っていった。
じゅぶ、と音を立て、ゴンの腹の肉を抉り取りながら。
「ぐぅっ・・・!」
脇腹を押さえながらゴンは立ち上がる。幸い内臓は傷付けていないようだが出血が多い。傷口を押さえた手が見る見るうちに自らの血で真っ赤に染まっていく。
敵は復元した腕の先、爪に引っ掛かった血の滴るゴンの肉を口元へ運ぶと美味そうに咀嚼し、耳まで裂けた口を歪め凶々しい笑みを浮かべた。
「美味ぇナぁ・・・やっパり、食ウならガキに限ルなァ」
その様子をギリと睨み付けるゴンに対し、敵は愉快そうに嘲笑う。
「ケッ・・・エサのくセに生意気ナ真似しヤがって・・・おとなシく泣き叫ンで食わレてろ」
ガラスを爪で引っ掻くような耳障りな声で化物は喋る。しかしその声色以上に、発した言葉の内容がゴンの逆鱗に触れた。
「・・・子供たちを、そんな風に笑いながら食ったのか?」
「ハァ?」
俯きながら怒りに震えオーラを練るゴンに対し、化物は嘲笑を浮かべたままバカにした様子で返す。
「笑いながら食ったのかって聞いているんだ!」
ゴウッと勢い良くオーラを発するゴン。それでも化物は気圧されることも無くけたたましく笑い声を上げる。
「ヒャーーッハッハ! お前も皮まデ残ラず食っテやるヨ!」
哄笑を上げながら化物はゴンに飛び掛る。大きな口を開け、牙を剥いて頭から突っ込んでくる。しかし今度は、ゴンは身じろぎせず相手を待ち受ける。ありったけのオーラを、右拳に集中させながら。
グジュゥッ! と音を立てて、敵の牙がゴンの首筋に齧り付いたのと同時だった。
「じゃんけん、グー!!」
食われる瞬間こそが、最も深く相手の懐に入り込めるタイミング。
それに合わせて、ゴンは渾身の一撃を繰り出した。
骨が砕け、肉が裂ける感触がゴンの拳に確かに伝わる。強烈な破壊音が真っ暗な森に響き渡った。まともに食らえば致命傷は免れぬ一撃。
そのはずだった。
次の瞬間、ゴンの視界がグラリと歪む。爪先、指先から血が逆流して首筋へ一気に流れていくような感覚だった。全身の力が抜け、意識が遠のいていく。
霞む視界の中、ぼんやりと見れば首筋に噛み付いた化物は一撃を食らって剥がれるどころか、受けた傷を修復すべく本能的に栄養を、血を摂取しようと、信じられない勢いでゴンの血を吸い尽くそうとしていた。
ここで意識を失っては死に直結する、絶対に駄目だ、と自分に言い聞かせ、ゴンは再びオーラを練ろうとする。が、どうしても身体に力が入らない。痙攣で、膝がガクガクと震え出した。
不意に、親より先に死ぬことは最大の親不孝だというラムジの言葉をゴンは思い出す。
『死』など自分にはまだ縁遠いものだと、その時ゴンは話半分に聞いていた。
しかし急速に失われていく血が、ゴンから意識を奪っていく。
やがて、ゴンの意識は暗闇に飲まれていった。