こんなにも温かな生き物がこの世に存在するということを、彼はこの時初めて知った。









(さて、どうしよっかなー・・・)
 ヨークシン、或るホテルの一室でイルミはソファに腰掛け、頬杖をついて考え事を巡らせる。
 目の前のベッドには、つい先ほど攫ってきた少年が横たわっている。
 針で意識を奪ったが、規則正しいリズムで上下する胸や安らかな表情はただ寝ている時のものと大差はない。


 攫ったのは半ば衝動のようなものだった。
 ヒソカから「もう逃げて良い」と連絡を受け、ヒソカに成りすましたまま旅団アジトからフけたイルミは、折角近くに弟が居るのだからと、それとなくキルアの様子を探っていた。


 その過程で目に留まった少年――――キルアの「友達」だと言い張るゴンとかいう子供。
 正直、イルミにとってゴンの存在は邪魔でしかない。
 優秀な暗殺者にするべく育て上げたはずの弟の道を歪めた張本人なのだから。
 ヨークシンの街でゴンの姿を見掛けると瞬時に針を放ったのは、イルミの中に燻っていた苛立ちが無意識にそうさせたのかもしれない。
 ドウッと突然倒れた子供の姿に往来を行き交う人々は驚き足を止めたが、イルミは構わず気を失ったゴンの身体を抱え上げてその場を悠々と立ち去った。


 特に、目的があった訳ではない。
 強いて希望を挙げるなら、この場でゴンを殺してしまいたい。
 けれどイルミは、それが後々面倒な事態を引き起こすことを十分に承知している。
 その上で暴挙を犯すほど、イルミは軽率でも愚かでもなかった。


 だから、イルミは思慮を巡らせている。
 衝動でホテルの自室に連れ去ってきたは良いが、さてこの後どうしようか、と。


 キルアに近づくなと脅したところでゴンは聞く耳を持たないだろう。
 そもそも、キルアから引き離したくてゴンを攫った訳でもない。


 ゾルディック兄弟の母親はキルアを溺愛し、とにかく管理下に置きたがっている。
 キルアを「心配だ」と嘆く彼女の言動は、即ちキルアの能力も素行も思考も何もかも信じていないことの裏返しだ。
 だから、キルアは母親に反発する。


 反面、父親はキルアを「信じる」と言い出した。
 イルミがキルアの脳に針を埋めたことは父親も合意のことだったが、それはキルアが元来持つ「情」や「優しさ」が仕事に悪影響を及ぼす可能性を孕んでいた所為だ。
 仕事での失敗は、即「死」に繋がる。
 イルミの針は、幼く未熟なキルアの命を守る保険の役割を担っていた。


 しかし父親は、キルアに「友達」ができたことを容認した。
 ひょっとしたらキルアの友達――――ゴンの存在がキルアの更なる成長に役立つかもしれないと考えたからかもしれない。


 心身ともに強靭で、優秀な暗殺者となること。
 キルアに対する望みは家族の誰もが一致している。
 しかしキルアがそこに辿り着くために歩むべき道筋は、各々バラバラな線を描いているのだ。


 イルミのやり方は、母親のそれと近い。
 しかし、父の意見を尊重しゴンの存在を容認しているのは、やはり家長である父への信頼が大きい。ゾルディック家では、良くも悪くも家長の判断は絶対だ。


 ゴンを殺す訳にはいかない、排除するつもりもない。
 しかし、ゴンはキルアにとって危険な存在に違いないという嫌な予感は、イルミの脳裏の奥底に常にべったりとこびりついている。
 どうすることもできない苛立ちが招いた結果が、今この状況である。
 しかし、ゴンを攫ったところでイライラが消えるどころか、何の悩みも無さそうな無邪気な寝顔を見ていると、イルミの苛立ちは更に募るばかりだ。


(・・・やっぱり、このまま道に棄ててこようかな・・・)
 自分で気を失わせて拾って来ておいて、結局元に戻して来ようという大変身勝手な結論に辿りついたようだが、残念ながらイルミは自らの思考や行動に自己嫌悪や罪悪感を抱くことは一切無い。


 イルミが溜息混じりにソファから立ち上がりベッドに近づいたところで、バチン、と音が聞こえてきそうなほど突然に、ゴンがパッチリと目を開いた。
 突然目が覚めたこと自体に自分でも驚いている様子のゴンにつられて、イルミも思わず目を見開く。


 イルミとゴン、目と目が合った。
 ゴンは驚いた表情のまま固まっている。
 沈黙は、三秒。


「△※◎■%☆◇#@〜〜〜!?」


 ゴンは、世にも奇妙な音を発しながらベッドの上に飛び起きた。
 遅れてようやく臨戦態勢をとり、イルミをギッと睨み付ける。


「なっ、なんでお前がここに居るんだ!?」
 慌てながら必死に吼えるゴンに対し、イルミは冷静に返す。
「ココがどこかわかってるの?」
「えっ」
 言われてキョロキョロと部屋の中を見回すゴン。
 自分のアジトで目覚めたものとばかり思い込んでいたらしく、改めて状況を確認し、自分がまったく見覚えの無い部屋に居ることを知ったゴンは、急にしゅんとして不安そうにイルミに尋ねた。
「えっ・・・ココ、どこ?」
 目の前でめまぐるしく変化するゴンの態度や表情に、ほんの少しだけ愉快さを感じながらイルミはしれっと答える。
「俺が泊まってるホテルの部屋」
 それは確かに尋ねた問いの答えであったが、イルミの答えはゴンに更なる疑問を持たせただけだった。
「なっ、なんでオレがお前の部屋に居るの? キルアは?」


 いつも一緒に居るキルアが側に居ない。
 その状況が無意識に発させたゴンの言葉だったが、「キルア」というその一言がイルミの神経を瞬時に逆撫でした。
 次の瞬間、イルミは針をゴンの喉元に押し当てていた。
 薄皮一枚隔てた向こうにゴンの頚動脈が在る、そのポイントにイルミは正確に針を突きつける。


 一瞬、ゴンが息を呑み、驚きと不快感に表情を硬くした。
 対するイルミの表情はまったく動かない。
 ゴンが目覚めた時から、一遍の曇りもない無表情だ。


「お前を、殺すつもりで連れて来た」
 イルミは、心にもないことをゴンに告げた。
 募る苛立ちが出させた言葉だった。
 ゴンに恐怖を感じさせたい、服従させたい、イルミの中にはそんな心理が働いていたのかもしれない。


「キルアに友達なんか必要ない。お前なんか居ない方が、キルにとっても幸せなんだ。俺たちとお前とでは、住む世界が違う。いい加減、現実を受け入れて、キルから離れなよ」
 ゴンに何を言っても無駄だということもイルミは十分承知している。ククルーマウンテンの自宅にまでキルアを迎えに押し掛けたくらいだ。


 キルアからゴンを引き離したくて、現実を動かしたくてイルミはゴンを脅している訳ではない。
 イルミはただ単に、自分を苛立たせる仕返しにゴンに不快感を与えたいという子供じみた欲求から、冷酷な言葉をゴンに投げ付けているだけに過ぎなかった。
 案の定、ゴンはイルミの言葉にひとつも怯みはしない。
 しかし、不機嫌そうにムッとした表情を見せ、イルミはほんの少しだけ満足した気持になった。


「うるさい! お前が何と言おうと、オレとキルアは友達だ! 必要かどうかなんて、お前が決めることじゃない!」
 ギッと強い眼差しでゴンはイルミを睨み付ける。イルミは表情を動かさない。
 しかしゴンは喉元に当てられた針も、イルミの冷たく見下ろす眼も恐れることなく「それに」と言葉を続ける。


 ゴンは、ゆるゆると手を伸ばして、イルミの手を掴んだ。
 不意に感じた小さな手の温度に、イルミの心の奥底の何かがじわりと揺らぐ。


「手を伸ばせばこんなに簡単に触れる所に居るのに、住む世界が違うなんてことあるもんか!」
 真っ直ぐにイルミを見つめる、ゴンの透明な眼差し。
 ハンター試験の時とは違い、怒りに任せてイルミの腕を折るようなこともなく、ゴンはただじっとイルミを見つめていた。
 しかしイルミは、その透明な眼差しに射抜かれてもなお、表情を動かさない。
 ゴンは、妙に大人びた表情でイルミに告げた。


「オレとお前だって同じ世界に生きてるよ。なのに、オレたちが違う世界に住んでるって言うなら、それはお前がこの世界を拒絶してるだけだ」
 少年とは思えぬ真理を捉えた言葉に、イルミは思わず「ふぅん」と納得したように呟いていた。
「・・・意外とうまいこと言うね。当たってると思うよ、ソレ」
 そう言いながら、イルミは初めて表情を崩した。
 薄く、口元に笑みを浮かべたのだ。


 そして、イルミは自身の手を掴んでいたゴンの手をやんわりと解き、同時にゴンの喉元に当てていた針を引く。
 「また腕を折られちゃ適わない」と、なんでもないようにイルミが呟くと、ゴンは反射的に"あっごめん!"と言おうとしたのをかろうじて飲み込んだような反応を見せた。


「・・・・・・」
 そんなゴンの様子を、今度はイルミがジッと見つめる。
 無言で、無表情でただ見下ろされる居心地の悪さに、ゴンはすぐに耐えられなくなって「な、何?」と小首を傾げながら問う。
 五秒間、たっぷりゴンの眼を見つめてから、イルミはつまらなさそうに告げた。


「ヒソカに、感謝するんだな」
「えっ?」
 じっと顔を見つめられたと思ったら、突然出された奇術師の名前。
 その単語に、ゴンは面食らってしまう。
「お前はヒソカの獲物らしいから、俺がお前を殺す訳にはいかないってこと。命拾いしたね」
 ヒソカへの義理立てなど、イルミにとってはそれほど重要な意味を持っていない。ただ、此処でイルミがゴンを殺さぬ理由として、ゴンが最も納得しそうなものを選んで説明してみせただけだ。


 しかし。


 イルミの言葉に、ゴンは今までイルミが見た中で最も嫌悪感を露にした表情を見せた。
 ものすごく、この上なく、嫌そうで気持ち悪がっているような青ざめた表情。
 それを見て、イルミは自分の中に燻っていたイライラが、スウッと霧散したように感じた。


(なんだ、ゴンに嫌がらせをしたいならヒソカの名前を出せばいいのか)
 これは良いことを知ったと、無表情ながらもイルミは機嫌を良くする。


「ヒソカ、まだヨークシンに居るだろうから、俺がお前を連れて来たことに気づいて此処に乗り込んでくるかもしれないね」
 冗談のつもりで試しに告げてみたイルミだったが、その言葉にゴンは「うわあああぁぁ!?」と心底嫌そうな悲鳴を上げた。
 過剰なくらいの嫌がりように、イルミは声を上げて笑い出したくなるほど愉快な気持になる。


「お、オレ、帰るね!」
 イルミの言葉を真に受けた様子で、そそくさとドアへ向かうゴン。
 心なしか、剥き出しになっている腕や脚には鳥肌が立っているように見えた。
 部屋のドアを開け、廊下へ身体を半分出したところで、ゴンは慌てたように振り返る。
「じゃーね! バイバイ!」
 こんな状況でも挨拶を忘れないのは、果たして彼の性格なのか、よほど厳しく躾けられたのか。


 バタンと閉じられたドアを見つめて、イルミはつい先ほどまでそこに、手を伸ばせば触れられる所に居た騒々しい生き物の、くるくるとめまぐるしく変化する表情を反芻する。




『お前がこの世界を拒絶してるだけだ』




 そう、ゴンはイルミに告げた。
 その通りだ、とイルミは思う。


 あんなに真っ直ぐで透明な眼差し。
 ゴンの眼に映る世界は、さぞかし輝いて見えることだろう。
 その世界を思い描いてみただけで、闇に慣れたイルミの眼は潰れてしまうのではないかというほどに。


 手を伸ばせば、触れられる。
 けれどイルミは、そんなもの必要ないのだ。
 暗殺者である、闇の世界の住人に、そんなものは必要ないと。


 キルアはまだ幼い。
 だから、躊躇しながらもその世界に手を伸ばすことができるのだ。


 けれど、自分は――――


「・・・・・・」


 イルミは、自らの手をじっと見つめた。
 先ほど、ゴンが掴んだ右手。
 微かな温もりが、まだ其処に残っている。


(こんなものは、要らない)


 そうして、イルミは。


 自らの右手に針を刺し、運命線を刻むようにギギッと縦に針を引いた。
 皮膚が裂け、肉がめくれ、掌から真っ赤な血が溢れ出す。
 ドクドクと流れる鮮血が、右手に残る温もりを濯ぎ落とす。
 同時に、先ほどまでイルミの胸にじんわりと灯っていた、愉快さも、驚きも、満たされたような気持も、急激に冷めていく。


 しかし、これで良いのだと。
 そんなものは、自分には必要ないのだからと。


 真っ赤に染まった自らの手を見つめて、イルミはそう、信じていた。